5つ目のピアス
ピアッサーで穴をあけること5回目、失敗した。
これで失敗した穴は4つ、思い通りに開けられたのは1つだけ。不器用すぎないか。私はピアス開ける人というカテゴリにおいてポンコツなのか。
もう皮膚科行って他人に開けてもらうしかないのか。
元々両耳1つずつ開いているので、2つめの穴の角度と位置にはこだわりがあって定めるのが難しい。
初回は、瞬間ピアッサーでバチーンとあけた。器具で位置が見えない上に手がブレて両耳失敗。もう使わん。
次からは自分でむぎゅっと押す手動式タイプを使ったが、それでも左は思い通りにならず、しばらく日を置いて5回目。失敗した傷跡を慎重に確認しすぎて、元々開いてた穴のことを忘れていた。意味わからん近接値に穴が現れた。連結しそう。
ピアスを開けることを考え始めたのは昨年の冬頃からだ。
「耳に穴をあけたい」とぼんやりと浮かんだ考えは、メンタルが不安定になるにつれ強くなった。不安や怖れを感じ始めると、耳たぶを針が突き抜けるイメージを、なぜかそれをやれば落ち着くのだからと切望するように描いてしまう。体に穴をあけたいと言った方がいいのかもしれない。その欲求が何やら不健全な出どころから発生していると感じていたので、やるべきでないと自分を抑えた、しばらくは。
ファッション的理想もあるのは確かだが、それは自分の手によって、痛みを伴って得られるものでなければ意味がない、という気持ちが根底に見えている。ピアスというアイテムを身に着けるにあたり耐えなければならない瞬間ではなく、その痛みを実感する工程を望み、その先に印として何かしらの装飾が残るのだ。
だから瞬間ピアッサーは期待外れだった。大げさな音とともに一瞬で完成するので、痛いという自覚がない。来るぞ来るぞという恐怖を煽る時間のあとで「あ、開いてるわ。」という感想だけがただ残されている。大きい音で怖がらせるホラームービーみたい。
手動式のものはちゃんと痛いという感覚と針先の刺さる感触がある。”ちゃんと痛い”って程度は、筋肉注射や歯医者でキキーッて削ってひぃ!ってなるアレより弱い。その程度だ。
”ピアスを開ける”という行為で得ている感覚を言葉にするのは難しい。
自分の身体をコントロール出来ているという実感だろうか。あの痛みは私だけの意思の下で、私自身の手によって生まれている。他の誰かが入り込む余地は絶対にない。じんとした痛みがそこにある間、誰にも傷つけられることはないという気がするのだ。
もちろん痛みから発生する脳内物質の影響は感じる。先日失敗した際、ピアスの先がくびれた形状のためちっとも抜けず、(ヤバイヤバイ…)と慌てている間はめちゃくちゃ元気でいられた。なるほど不健全な短期ドーピングだ。あの間だったらどこへでも行けた気がする。Yeah!!
欲しているものは多分わかっている。私という人間は誰かのステータスやストレスを慰めるために存在しているのではない。私の身体は私だけのものだ。そうやって自信と確信をもって自分を抱えたい。
それが出来ない今、どこにも根を下ろせないような、現実味が感じられないことへの不安感に覆われるときがやって来る。そして私は”ピアスを開ける”という行為を杭のように沈めて自分とそのの主導権の在りかを確かめる。
左耳の2つめのピアスは病院で開けてもらった方がいい。私の手先はポンコツなことが判明してしまったし、得体の知れない依存心を引き延ばしたくない。3つの小さな傷が消えていくのを眺めながらそう思う。
でもまぁ、開けなくてもいいか、今日は天気が気持ちいいのだから。