小説「継続輪廻ゼロ地点」1/5
1979年11月 山神村
乾いた、冷たい空気が鼻腔を抜ける。秋も深まり、朝はすっかり冷え込むようになった。この季節は掃除が大変だ。ブナ、クヌギ、コナラなどの落ち葉。どんぐりもたくさん落ちている。私は大きな竹ぼうきでゆっくり秋をかき集める。
「おーい、おーい」
ふと、遠くから大きな声で叫ぶ声がした。
「住職さーん、住職さーん」
どうやら私を呼んでいるようだ。こんな朝から何事か。
寺に駆けてきたのは、もじゃもじゃの髪を振り乱した村長の谷中さんであった。
「おはようございます。谷中さん、こんな朝から何事ですか?」
少し太り気味の谷中さんは、手を膝に当て前かがみになり、はあはあと息が荒い。よほど急いで来たらしい。呼吸を整えてようやく話し出す。
「住職さん、山の入り口あたりに、知らない男が倒れているんです」
「倒れていると?」
「はい。壺阪先生には診てもらってるんですが、先生が、これは住職さんに診てもらったほうが良かろう、と」
壺阪先生は村の診療所の医者だ。先生が匙を投げるとは、どんな重病人なのか。
「わかりました。壺阪先生がそう仰るなら、とりあえず、向かいましょう。先代に声だけかけてきます」
「よろしくお願いします」
私は倒れているという男の状況がよくわからなかったが、とりあえず、父である先代に声をかけ、山に向かうことにした。紅葉が美しい秋の山は平和そのもので、息を切らして駆けている私と谷中さんだけが、その静かな風景を乱していた。
「あ、村長さん、戻ってきた」
「良かった、住職さん連れてきたぞ」
私が山の入り口に着くと、村民の数人が一つに集まっていた。どうやら、倒れている男を囲んでいるらしい。その真ん中に、壺阪先生がしゃがんでいるのが見えた。
「先生、住職さんお連れしました」
谷中さんが声をかけると、「む」と返事をし、壺阪先生が立ち上がった。
ふと足元を見ると、谷中さんの言っていた通り、見たことのない男が倒れていた。髪は伸びてぼさぼさ、無精ひげで、薄汚い身なりの、知らない男だった。私より少し年下くらいか。三十代のように見えた。
「壺阪先生、その男は?」
「あぁ、今朝早くに松山さんが山菜を取りに山に入ろうとしたところ、ここに倒れていたらしい」
松山さんは、村民の一人だ。
「そうなんです。知らない男が倒れているから驚いて、大丈夫か? って駆け寄ったんです。そしたら胸のあたりに血が滲んでいるのが見えて、こりゃ大変だ、と思って急いで壺阪先生のところへ駆け込んだんです」
発見者の松山さんは、興奮した口調で早口に説明してくれた。壺阪先生が冷静に続ける。
「服をはだけてみると胸から腹にかけて大きな傷があって、出血しておった。大きな獣の鉤爪にひっかかれたような傷じゃ」
「息は?」
「息はあるが、意識がない」
「熊でも出たんでしょうか?」
私が言うと、壺阪先生は首を振った。
「住職さん、これを見てくだされ」
壺阪先生は、倒れている男のボロボロに千切れた服をまくりあげた。それは、確かに大型の熊にでもひっかかれたような切り傷だった。まだ血が滲んでいるが、先生が縫合した跡がある。しかし、そんなことより目についたのは、その傷を覆うように漂っているどす黒いモヤのようなものだ。
「先生、これは……」
「あぁ、傷はそれほど深くなかった。しっかり消毒をして縫ったから、時間が経てば治るじゃろう。しかし、このモヤは、私の手には追えん。熊の傷じゃない。住職さん、これは何なんじゃ?」
「私にも、わかりません。しかし……」
その黒いモヤを見た瞬間から、私は鳥肌が立って、気持ち悪くて仕方なかった。なんと呼べばいいのだろう。邪悪な、汚い、恐ろしいものに見えた。私は、ようやく四十になる若住職だ。こんなもの、見たこともない。
「先代に相談させてくだ──」
「寺に運べ」
私が言い終わらないうちに、背後から低く鋭い声がした。
「先代!」
「お前の帰りが遅いから、見に来た。あの傷を覆うモヤは、壺阪先生の仰る通り、医療でどうにかなるものではない。寺に運んで、療養させないと、あの男はモヤに取り込まれてしまう」
「モヤを消す方法はあるんですか?」
「手は尽くそう。とりあえず、男を寺へ運ぼう。谷中村長、村の衆を集めてください。男が倒れていたこのあたり一帯に、寺の御神水と酒と塩を撒いて清め、山神様へのお供えを尽くしてください」
「わかりました!」
谷中村長はもじゃもじゃ髪を振り乱し、また走り出した。
その場にいた村民たちで、倒れていた男の手足を持って運ぶ。ぶらぶらと揺すられる男の胸には、相変わらず黒いモヤが漂って着いてきていた。
寺までの途中、谷中村長の声で、村民に公民館へ集まるよう伝える村内放送が聞こえた。