掌編小説:未来が視える私には見えない明日【5895文字】
それが初めて見えたのは、5歳のときだった。
祖母の家にいた。お盆で親戚が集まっていた。賑やかな夕飯のあと、縁側で涼みながらスイカを食べていた私のところに祖母がきた。
「うめえかえ?」
「うん!」
返事をしながら振り返った私はおかしなものを見た。祖母の頭の上に、白く光る輪が浮いているのだ。
「おばあちゃん、頭に何かついてるよ、何それ?」
「んにゃ? 何かついてるかえ?」
「うん。きれいな白い輪っか」
「なんじゃろね、何もついてねえけどね」
祖母はにこにこして私の隣に座った。祖母が移動すると光る輪も移動し、頭上10センチくらいのところに浮いていた。一緒にスイカを食べていた従姉妹たちは「どれ?」「何のこと言ってるの?」「何もついてないよ」と祖母の頭の代わる代わる触ったり髪をもじゃもじゃにしたりして遊んでいる。光る輪には気付いていなかった。ほかの人には見えていないのかな。不思議に思ったけれど、たいしたことではないと思った。祖母の家に遊びにきて高揚していた私はいかにも子供らしく、不思議な現象をありのまま受け入れた。
祖母が死んだのはそのちょうど7日後だった。
お盆に集まったばかりの親戚たちが再び集まり忙しくしている間、私は部屋の隅で祖母と食べたスイカの淡い甘さを思い出していた。
縁側、スイカ、蚊取り線香。祖母に会うのはいつも夏の終わりだった。夕方の涼しさ。庭の土と花、湿った風の匂い。
私は光る輪のことはすっかり忘れていた。
その白く光る輪に意味があると気が付いたのは小学6年生のことだった。
ある日の全校集会で挨拶をしている校長先生の頭の上に白く光る輪が浮いていたのだ。
「ねえ、校長の頭の上、何か光ってない?」
隣に並んでいる友人にこっそり話しかけた。
「え? やだ、それって校長がハゲてるってこと? それ言っちゃやばいでしょ」
友人は笑って取り合わなかった。ほかの誰にも見えてないらしいその光る輪は、私には確かにはっきりと見えた。
それから学校で見かけるたび、校長先生の頭の上に光る輪があるのを確認した。
校長先生が死んだのは全校集会からちょうど7日後だった。
担任の先生がクラスで「校長先生が亡くなりました」と知らせたとき、私は初めて祖母のことを思い出した。
おばあちゃんと一緒だ。
おばあちゃんも私が光る輪を見た7日後に死んだ。
それから私の生活は一変した。気付いていなかっただけで、白く光る輪を頭上に浮かせている人はけっこういた。意味に気付いたことで私の見える感度が上がったのかもしれない。
街を歩いていても光る輪をよく見るようになった。そのつど私は、この人は7日後に死ぬのだ、と考えて落ち込んだ。それを私だけが知っている。知っているのに何もできない。
電車の中で、4人家族全員の頭上に光る輪を見つけたときは、さすがにその場から逃げ出した。仲睦まじく笑いあう家族を見ていられなかった。
テレビの生放送中に司会者の頭上に浮いているのが見えたこともあった。その7日後に「突然の訃報、名司会者、逝く」というニュースを見た。
こんなの見たくない。見えないほうがいい。
そんな毎日を繰り返し、大学生になった今、私にはまだ光る輪が見えている。
でも、以前のように落ち込まなくなった。
仕方ないのだ。見えたところで私にはどうしようもない。
人はいつか必ず死ぬ。それは70年後かもしれないし、7日後かもしれない。それだけだ。
そう思わないと私の精神状態が保てなかったのかもしれない。もしくは案外慣れただけかもしれない。とにかく年月を経て、私は気にしなくなった。
表向き普通の大学生になった私は、楽しい学生生活をおくっていた。通学時、電車の中で光る輪を見つけても、気にしない。光る輪が浮いているのは、サラリーマンであったり、女子高生であったり、老婆であったりしたけれど、私はいちいち心を痛めなかった。おしゃれをしたり、友人と買い物を楽しんだり、普通の日々を楽しんだ。
そして彼に出会った。
一目で好きになった。
サークルで知り合った先輩だった。恋愛に不慣れな私のあからさまな好意に気付いたのか、積極的に誘われ、付き合うことになった。人生で初めての彼氏であった。ちょっと軽い感じに見えたけれど、付き合ってみると誠実で優しい人だった。私は夢中になった。
遊園地に行ったり、海に行ったり、映画を見たり、彼の家に行って手料理をふるまうこともあった。そして好きな人に抱かれる幸福を初めて知った。くせのない柔らかい髪、細くてきれいな指、私の体をとろかすように撫ぜる唇。私は彼の全てを愛した。恋とはこんなに幸せなものか。
彼と一緒にいるようになって、光る輪は全然見なくなった。私が彼ばかり見ていたからかもしれない。他人のことなど、今まで以上にどうでもよくなっていたのかもしれない。自分が幸せなときは、他人のことなど気にならなくなるものだ。
そもそも光る輪なんて気のせいだったのかもしれない。幻覚のようなものだったのだろう。そう思った。
彼と付き合いだして3か月。
彼からのデートの誘いが少なくなっていた。毎週のように出かけていたのに、バイトや友人との先約を理由に断られることが増えた。大学で会っても、心なしかそっけなく感じる。彼にも人付き合いがあるから仕方ない。忙しいのだろうと思ってはいても、やはり寂しい。メールの返信も遅くなっている。でも、あまり執拗に連絡して嫌われるのも嫌だ。眠れぬ夜、彼の匂いを思い出して過ごした。
そんなおり、久しぶりに大学の食堂で会った彼から週末の食事に誘われた。「夜しか時間とれないから家で飯でも食おう」それだけ言って彼はサークル仲間の集まるほうへ走って行ってしまったけれど、最高の気分だった。何を着ていこうか、ご飯は何を作ろうか、その日の午後の授業は上の空だった。
土曜日の午後6時、彼の家の近所のスーパーで待ち合わせをした。
悩んだ結果、家デートにふさわしい楽な服装にして、下着だけは少し気合いの入ったものにした。浮ついた気持ちで待っていると、約束の時間より10分遅れて彼が来た。
「遅れて悪い」
私は彼を見て、何も言えなくなった。
目を疑った。
そこには、彼の頭の上には、あの白く光る輪が浮いているのだ。
「どうしたの? 遅れたこと怒った?」
私は無言で勢いよく首を振った。
「じゃ何だよ。じろじろ見んなよ」
「ごめん、何でもないよ。久しぶりだな、と思って」
何とか言葉を発した。
「そんなに久しぶりでもないだろ。何か適当に買って帰ろうぜ」
私は混乱した。
彼と付き合ってから見えなくなっていた光る輪。それが今またはっきりと私の目の前に現れた。スーパーの店内を彼が歩くスピードで、頭上の光る輪もすーっと移動し、同じ位置を維持しながら、決して消えたり薄れたりすることはなかった。
彼が最近忙しくて会えなかったから私の精神状態が不安定になって、またおかしな幻覚を見ているのかもしれない。そう思いたかった。でも、目の前にあるのは、私が5歳のときからずっと見慣れてきた、あの白く光る輪に違いなかった。
彼は、7日後に死ぬ。
その事実を私は受け入れ難かった。
いつもより無口な私に構わず彼はカゴを持ってウロウロし、「飯は何でもいいよ」と言って、ビールとサキイカをカゴに入れた。私はハヤシライスを作る予定だったことを思い出して、材料をカゴに入れた。レジに並んでいるときも、会計をしているときも、帰り道も、光る輪はずっと彼の頭上にあった。
私が作ったハヤシライスを「少し味が薄いな」と言って塩を足して食べているときも、テレビを見ながらビールを飲んでいるときも、私を抱いているときも、光る輪は消えたりすることはなく、彼の頭上に居続けた。私は抱かれながら目の前に浮いている光る輪を見つめた。
こんなに長時間見続けたことはなかったから、私は初めてしっかりと観察した。輪郭はぼんやりしているが確実に輪っか状で、発光していた。触ろうとしたら、手は空をすり抜けた。触感や温度は全くなかった。
その夜、泊まれるのかと思っていたら「明日早いから」と言われ帰ることになった。玄関で見送る彼の頭上にはまだ光る輪が浮いている。
「気を付けてな」
「うん。また連絡するね」
彼のアパートを出てひとり駅まで歩く間、私は決意した。いや、今日彼に会った瞬間から決めていたのかもしれない。
光る輪は本物だ。私が一番よくわかっていることだ。
彼は7日後に死ぬ。それを知っているのは私だけだ。
それなら、私が阻止するしかない。
私が彼を守るのだ。
光る輪が見える体質に、人生で初めて感謝した。
それから彼を尾行する7日間が始まった。
死ぬ予定はおそらく7日後だけれど、それまでに予兆がないとも限らない。彼の行動を把握し、いざというときにすぐに助けられる状態にしておかないといけない。
そこから6日間、彼が死にそうな場面は一度もなかった。
それでも私は気を抜かず、彼の命を救うことだけに専念しようと思った。いざとなれば身をていして守ることにも抵抗はなかった。
私は彼の恋人であり、彼を救える唯一の人間だ。
この6日間彼はたびたび飲み会に参加しており、決まって同じ女とふたりで帰ることが気になった。調べてみると、帰る方向が同じだけのようだった。一度その女と一緒にいるとき姿を見失い尾行に失敗したときは心配したが、彼のアパートで張っていたら無事に帰宅したので、ほっとした。
7日目。土曜日。
今日は彼が死ぬ予定の日。
いつもより気合いを入れなければならない。
本当は今日一緒にいたかった。でも「お世話になってる先輩の買い物に付き合わなきゃならない」と言われた。それならこの6日間と同じ、尾行するまでだ。
何があっても彼を守らなければならない。
早朝から彼のアパート前で張っていた。
昼過ぎ、彼はアパートから出てきて、歩いて駅まで向かった。私はこの6日間で隠れやすい看板や建物を把握していたため、彼の尾行は完璧であった。
完璧な尾行に全く気付かない彼は頭上に光る輪をのせたまま電車にのり、渋谷で降りた。人が多いから尾行が難しくなるな、と思いながらも、頑張って後をつけた。どこで彼に危険が襲ってくるかわからない。
彼は渋谷ハチ公というベタすぎるところで待ち合わせしている様子だった。
そこに現れたのは、例の女だった。
女は彼より先輩であるから、買い物に付き合わされるのはこの女のことだったか。
彼はその女と買い物をし、映画を観て、夕飯を食べた。
私はふたりを監視し続けた。少し距離をとり、じっと身を隠し、息をひそめ、彼の命が危険にさらされないように、何時間でも張り付いた。愛しているからできるのだ。私にだけできる運命的な役割に緊張と胸の高鳴りを感じた。
食事を終えたふたりは電車に乗り、彼の住む駅で降りた。私もゆっくり後をつける。
驚くことに彼と女はふたりで彼の家に入って行った。
おかしい。
あの家に出入りできるのは恋人である私だけのはずだ。
そこで私ははっとした。
もしかして、あの女に殺されるのか!
事故に巻き込まれるとか、通り魔にやられるとか、突発的な死因ばかり考えていた。身近な人物に殺されることもあることを考えていなかった私は後悔した。
あの女は口がうまいに違いない。きっと何か恨みがあって彼に近づいて、自宅で殺す気だ。
あんな女に殺されるなんて、私の尾行が無駄になる。
私の使命が無駄になる。
私が彼を守らないで誰が守るのか。
女から彼を守るにはもう突入するしかない。
私は作っておいた合鍵で彼の家に入ると決めた。
ドアを静かに開け、女に気付かれないように、彼だけを救い出そうとそっと部屋に足を踏み入れた。そこで私は、一瞬何を見たのかわからなかった。
女の色白の四肢と、上に重なる裸の彼。
ベッドの上でふたりは重なり合い、絡み合っていた。
一定のリズムで揺れる彼の体と、目を閉じて半開きのぼってりとした唇から声を漏らす女。
私は立ちつくし、茫然とした。
しばらく眺めてから状況を把握した瞬間、脳の中の細胞がひとつ、ビリっと破れた音がした。
それはおそらく怒りの細胞だった。破れて溢れた怒りが脳内をどくどくと浸潤していく。
こんなに愛しているのに。
こんなに守ってあげようとしたのに。
私にしか守れないはずなのに。
気配に気づいたのか目を開けた女と私は目が合った。女は可愛げのない悲鳴をあげた。
彼は驚き、振り返り、「ううわぁ!」と大声をあげた。
私は、台所にあった包丁を握りしめていた。
女が胸を揺らして叫びながら走りトイレに閉じこもって鍵をかけた。
女はどうでもいい。
私は、全裸のまま頭上に光る輪だけ浮かせている彼を見て、その滑稽な姿に思わずクッと笑ってしまう。驚いて固まっている彼に近づいた。
「おい、危ないから、やめろって」
彼の声は弱々しく虚しく響いた。
今日は彼が死ぬ日。
やっとその意味がわかった。
これも運命的な役割なのかもしれない。
こんなに愛しているのに。
私だけの彼なのに。
私は何の躊躇もなく彼に包丁を振り下ろした。
私は、最愛の男の返り血で汚れた手と顔を洗ってから、女が隠れているトイレのドアの前にテーブルを移動してふさいだ。女の頭上に光る輪はなかったから、少なくとも7日以内には誰かに見つけてもらえるのだろう。女のことはどうでもいい。
着ていた服も汚れたため、脱ぎ捨て、さっき脱いだばかりと思われる女のワンピースを着た。
何もかもどうでもよかった。
私が守るはずだった男は、私を裏切っていた。ただそれだけのことだ。
こんなに愛していたのに。
駅まで歩いて、とりあえず家に帰ろうと思った。
放心した状態でホームに立っていた。脳内に溢れていた怒りも消え、何も感じなかった。
怒りは包丁の刃先に集まりそのままどこかに流れ出てしまったのだろう。
「ねえ、お姉さん」
声をかけられ、見ると4~5歳の女の子が私のそばに立っていた。
「なに?」
「頭の上に何のせてるの?光ってて、まあるくて、とってもきれい」
え?
ぶわっと笑いがこみ上げてきた。
「ははは、あはははははははは」
大きな声で笑いだす私を見て、周囲にいた人たちは驚愕し怯え、離れていった。
女の子の母親らしき女性がものすごい勢いで女の子を抱きかかえ走り去った。
私は笑いが止まらなかった。
そうか。自分の光る輪は、見えないんだね。知らなかったよ。
ねえ、その光るまあるいきれいな輪はいつからあったの?
ねえ、教えて、きっと、7日前だよね?
「1番線に急行列車が通過します」
ホームにアナウンスが響く。
「危険ですので白線の内側へおさがり下さい」
声高に笑いながら駆け出し、白線を越えて大きく跳躍した私は、激しい衝突とともにそのまま空中で細かく爆ぜた。
《おわり》