小説「継続輪廻ゼロ地点」4/5
陽が傾き、ぐっと気温が下がってきた。男に厚手の布団を掛け、先代と交代で様子を見る。私が男を見守っているときだった。
「……うぅ」
男が小さく唸った。
「お、おい、大丈夫か?」
私は思わず顔を覗き込み、頬を軽く叩いた。
「……ん」
男は薄らと目を開けた。
「先代! 先代! 男が目を覚ましました!」
私が大きな声を出すと、母屋から先代が歩いてきた。
男はむっくりと体を起こすと、自分の胸にかけてあったタオルをめくり、傷を眺めている。
「おい、あんた、大丈夫か?」
私が声をかけると男は
「俺は生きているのか?」
と、独り言のようにぼそっと呟いた。低くて渋い声だった。
「ああ、生きているよ」
私が言うと、ゆっくりこちらを見た。射すくめられるような暗い目だ、と思った。絶望と苦悩をかき集めたような、暗い目をしている。
「この傷を縫ってくれたのは、どなたですか?」
「壺阪先生という診療所のお医者さんです」
「そうですか。よく縫っただけで治ったな……。てっきり私は死んだかと思いました」
先代がゆっくり近づいて話しかける。
「ご気分がいかがですか? ここの寺の住職をしていたものです。あなたがこの村の山で倒れていたところを村民が発見し、ここへ運び、治療させていただきました。傷に怨念のようなものがまとわりついていたので、洗い流しました」
「怨念……」
「はい。黒いモヤのようなものです」
「近くに黒いでかい獣のような化け物はいなかったですか?」
「おりません。倒れていたのは、あなただけです」
「そうですか。勝ったのだな……。助けていただいたようで、ありがとうございました」
男は体を起こした状態で、ゆっくり頭を下げた。どうやら、恐ろしい殺人鬼ではなさそうだ。男に私の肌着を貸して着せる。
「腹が減ってはいませんか?」
先代が言うと、男は自分の腹を撫で「減りました」と無表情でつぶやいた。
男の食欲は目を見張るものだった。おそらく、死に瀕した体が、傷を治癒しようとする体が、栄養を欲しているのだろう。母と妻の作った料理を黙々と口に運び、茶を飲み、また食べる。妻が「お義母さん、お米足りますかね」とお櫃をのぞいている。確かに、心配になるような食欲だ。
しかし、男の胃は満たされたようで、正座したまま手を合わせ「ごちそうさまでした」と言った。
「私の名前は、山矢と申します。この御恩は一生忘れません」
そう言って、深く頭を下げた。
先代が「おい」と母に声をかける。
「山矢さん、と仰いましたか。あの、よろしければ風呂が沸いております」
「そこまでのご厚意に甘えるわけにはいきません」
母は先代の顔を見て首をかしげる。
「このあたりは、もうこの季節でも夜は冷えます。傷が痛むようでしたら、せめて腰まででも浸かって、温まって下さい」
先代の言葉に山矢という男は、「かたじけない」と言い、母に案内されて風呂に向かった。
私は谷中村長の家に電話をし、男が目を覚ましたこと、危険な人物ではなさそうなことを伝えた。谷中さんは安心した声を出し、明日顔を見に行く、と言った。そして、村民に連絡しておく、と言った。みんな心配しているから、と。私はこの村の人たちは本当に優しいな、と温かい気持ちになった。
山矢と名乗る男は風呂から出ると、私の寝間着を来て出てきた。
「服まで貸していただくなんて、本当に申し訳ない」
ぼさぼさだった髪は後ろに撫でつけてあり、切れ長の目が鋭い。無精ひげが渋く、思いのほか、男前であった。
「良かったら、一杯いかがですか?」
先代が日本酒を出してきた。
「かたじけない」
山矢は腰をおろし、グラスを受け取る。
「山矢さんと言ったね。傷は痛みませんか?」
「はい。ありがとうございます。おかげさまで、大丈夫そうです」
私も自分のグラスを持ってきて、手酌で日本酒を汲む。やはり気になることがあり、不躾かとも思ったが聞いてみることにした。
「不躾でしたらすみません。なぜ私どもの村で倒れてらしたんですか?」
山矢はグラスの中を眺めてから少し口をつけ、ぼそっと語りだした。
「ある男と、闘っていたのです」
大型の獣にでもやられたような傷であったが、闘った相手は人間なのか。ならば武器を使ったのか。
「私にこの傷をつけた男は、荒草といいます」
少し黙ってグラスを両手で包むように持って、再び口を開く。
「荒草は、私の古い友人でした。もう、どれほど月日が経ったかわからないほど、昔の話です。私と荒草は同郷で、古い仲です。しかし、今ではお互いを傷つけあうような、因縁の仲になってしまいました」
どう見ても、私より少し年下に見える男だが、昔とはいつのことなのだろう。
「私たちの育った村では、千年に一度、鬼が出ると言い伝えられていました。鬼が出るなんて、迷信かと思いますよね。でも、私たちの村では、本当に鬼が出ると信じられていたのです」
先代が頷く。
「よくわかりますよ。私たちの住むこの山神村も、不思議な土地です。山にお住まいの山神様という神様を、村民は皆、信仰しております」
「そうですか。だから、私のことも救ってくださったんですね。普通でしたら、恐ろしくて近付けないような傷だったはずですから」
山矢はまた酒で口を湿らせ、話し出す。
「荒草には、年の離れた妹がいました。私のことも慕ってくれて、かわいらしい純粋な子でした。それが、あろうことか、千年に一度の鬼の出る日に、山で行方不明になりました。そこは、私が夜警していた山だったのです。荒草の妹が行方をくらませたとき、私は村の女の帰路を見守っているときでした。鬼は若い女をさらうと言い伝えられていたので、村の女たちの出歩くときは、誰か男が用心棒についていました。ちょうど、荒草の妹と、私が付き添っていた女は、同じ時刻に出歩いていたのです。私は、荒草の妹が出歩いていることを知りませんでした。しかし、私の夜警担当の山で、妹のかんざしが見つかりました」
無表情で淡々と語っていた山矢が、少しだけ、苦いものを無理に飲み下すような顔をした。
「荒草は、妹を三日三晩探し回り、それでも見つけられず、矛先は私へ向けられました。奴は私を恨んだ。怒りの化身となり、感情に飲み込まれ、奴は化け物になりました。私が三十五歳のときです。初めて荒草に襲われました。奴は獣のような大きな鉤爪を持った化け物になっていました。そのとき、自分は死んだと思いました。しかし、防御した私の腕が、奴の首をはねたのです。私も自分の知らぬうちに、化け物になっていたのです。私は生まれ育った村を出ました。そこから、私と荒草はなぜか年をとらなくなりました。何かしらの代償か、罰なのでしょう。そうして三年に一度、荒草は蘇り、私を襲いに来る。私は返り討ちにする。ただその繰り返しの、地獄のような年月です」
感情の読み取れない濁った瞳で語る山矢は、酒に口をつけて続ける。
「今年が、また荒草と闘う年でした。ほぼ相討ちだったので、私は今度こそ自分が死んだかと思っていました。意識が朦朧としたまま山を歩き、あなたがたの村に辿り着いたのは偶然です。大変ご迷惑をおかけいたしました。死に損ないの流浪の身です」
そうして山矢はまた頭を下げた。
「山矢さん、あなたの過去はわかりました。お辛いこともあったでしょう。でも、生き残った命、生かされている命、大事にしてさしあげてもいいのではないですか」
先代の言葉に山矢は項垂れる。
「荒草の妹と年の頃の近い、若い女を助けることで、罪滅ぼしをしているつもりでした。流浪の身ですが、道中、困っている女には何か手助けをしながら生きて参りました。そんなことをしたところで、妹は戻ってこない。その私の行為が、荒草を余計腹立たせているようです」
「それは、荒草という方や妹さんへの罪滅ぼしではなく、山矢さんご自身の後悔への罪滅ぼしでしょうかね」
先代の言葉に、山矢は顔をあげた。
「──そうか。そうだったんですね。私は、自分の後悔を減らすために生きてきたのか」
グラスを両手で握り、山矢は言った。
「それは悪いことではありませんよ。ご自身の後悔に区切りがつくまで、十分に誰かの力になりながら生きていけばいいのです」
「痛み入ります」
「今日はお疲れでしょう。もう休みましょうか」
先代は話を切り上げ、立ち上がった。
「傷が良くなるまで村にいていただいて大丈夫です。これも何かのご縁です。ゆっくりして行ってください」
そういって先代は風呂に向かった。
「あなたのお父様は素晴らしいお人ですね」
山矢に言われ、私は誇らしい気持ちになった。
「はい。私も尊敬しています」
その言葉に、山矢が一瞬だけ、ふっと穏やかな顔をしたように見えた。