小説「継続輪廻ゼロ地点」3/5
村民たちが、たらいやバケツを持ち寄って、先代は男の傷を拭っていた。たらいが新たに一つ、バケツが一つ、真っ黒な水で満たされている。
「先代、飲み込みさまの木板を一枚だけ剥ぎました」
私の報告に、村民たちが一瞬生唾を飲んで緊張したのがわかった。村民たちも皆、飲み込みさまの井戸のことは、もちろん知っている。
「そうか。では、村の衆と一緒に、この水を運んで、飲み込みさまに飲み込んでいただこう」
「わかりました」
私は、真っ黒い水の張ったたらいを、松山さんと一緒にそっと持ち上げた。こぼさないように、恐る恐る運ぶ。水がちゃぷんと波打つたび、黒いモヤ自身が意思を持っているように感じられて不気味だ。二人で声を掛け合いながら、そっと運び、谷中さんが待つ井戸に辿り着いた。
「では、ここから飲み込んでいただきましょう」
私たちは、飲み込みさまの井戸に手を合わせ「よろしくお願いいたします」と頭をさげた。
そして、剥いだ木板の間から、真っ黒な水を流し込んだ。
さーっと流れていく水。やはり、着水の音はしない。ただ静かに流れていくだけ。飲み込みさまが飲み込んでくださっている。私は感謝しながら、たらいを空にした。
三人で飲み込みさまに頭を下げる。
「この要領で、全ての水を飲み込んでいただきましょう」
「そうしましょう」
私たちは代わる代わる、黒い水を飲み込みさまの井戸へ運んだ。その間、先代は男の傷を拭い続けた。先代はもうすぐ古希である。さすがに疲れるのではないかと心配になり、私は水を運ぶ手を村民にまかせ、先代の元へ戻った。
「先代、少し休んでください」
「ん、そうか。では、そうさせてもらおう。水を運んでいる村の衆にも、休憩してもらおう」
そこへ、ちょうど母と妻が大量の握り飯と豚汁を持って現れた。
「遅くなりましたが、みなさんでどうぞ」
「みんな、休憩にしてください」
「わあ、ありがとうございます」
時刻は午前九時。男を発見してから、三時間が経っていた。全員、一度、御神水で手を清めてから、握り飯と豚汁を食す。
私は、食事を摂る前に、男を発見した場所のことが気になり、一人で向かった。
山の入り口、男が倒れていた付近一帯は、御神水と酒が撒かれたようで、土は濡れており、塩も撒かれていた。そして、村民が心を尽くしたと思われる、野菜や果物や赤飯、握り飯、折り紙の鶴などがたくさん置かれていた。これなら山神様にも失礼がないだろう。私は安心して寺へ戻った。
秋の涼やかな空気の下、村民が集まり握り飯を食べている光景は、何とも平和で、私はこの村が本当に好きだな、としみじみ感じた。どこの馬の骨ともわからぬ男のために、みんな集まって協力する。この絆が、山神村を支えている。私は自分の住む村を誇りに思った。
食事を終えた我々は、作業に戻る。私が男の傷を拭い、黒く染まった水を村民のみんなが飲み込みさまの井戸へ運んで飲み込んでいただく。その繰り返しで、男の傷のモヤは次第に薄くなっていた。
「もう少しだ、頑張れ」
まだ意識の戻らない男に声をかけ、モヤを拭う。怨念とは、恐ろしきものだ。山神村の御神水でもこれだけ時間がかかるとは。私はこの男が殺めた相手のことが、気になった。この男が目を覚ましたら、話が聞けるだろうか。死闘をした相手と、その理由を。それとも、この男はただの恐ろしい人殺しなのだろうか。闘いに理由などなかったとしたら。この男を救うことが村を危険にさらすことになるかもしれない。いや、今は迷っている暇はない。この男を死なせなかったのは、山神様の思し召しなのだろう。私は山神様を信じて、この男を救うことに今は集中しよう。
モヤを拭い、濯ぎ、水を交換し、モヤを拭う。一時間以上繰り返していただろう。次第に水の濁りが薄くなり、男を覆うモヤも薄くなり、いよいよ傷を拭ってもタオルの色は変わらなくなった。最後に、きれいな御神水で傷を洗い流す。モヤは完全に晴れ、生々しい傷だけが男の胸に残った。
私は村民に感謝を伝え、取り急ぎ、飲み込みさまの井戸を塞ぎに行った。
谷中さんと一緒に木板を釘で打ち付け、蓋をする。飲み込みさまに手を合わせ、頭を下げる。
「どうもありがとうございました」
二人で境内へ戻ると、先代が男の横に座っていた。
「みんなにはいったん帰ってもらったよ。この男が意識を取り戻すか、あとは男の生命力次第だろう」
「そうですね。意識が戻るといいのですが」
「本当ですね」
「谷中さんも、ありがとうございました。男のことは私たちで様子を見ておきます。何かあれば連絡しますので、お帰りになってください」
「はあ、どうも、すみません。そうさせてもらいます」
谷中さんは、んーっと声を出して背伸びをし、首を左右に倒してコキコキと鳴らしてから「では、失礼します」と帰っていった。
秋の高い空を見ながら、思わずはあーっと息を吐いた。私の生まれ育ったこの山神村は不思議な土地だが、今回ほど驚いたことはないかもしれないな。この男が目を覚ましたとき、どうか悪人ではありませんように。そう願って、また空を見上げた。太陽がちょうど真上に登る頃だった。
先代と交代で男の様子を見ながら、食事をとって、私は掃除の続きをした。村民たちが気にかけてときどき境内を訪れるが、男はまだ目を覚まさなかった。
《つづく》→4