掌編小説:それでも光をみつける #私が見たゆめのせかい【4229文字】
遭難してから三日経った。
喉の渇きは限界を越え、唇も口の中も喉も、張り付くように乾燥している。両手の平は傷だらけで、右手の爪は剥がれかかっている。暑い。意識が朦朧とする。俺は生きて帰れるのだろうか。
山に入ったのは三日前。
二十代から登山を始めて、十年間くらいはよく登っていた。仕事が忙しくなったのをきっかけに登らなくなっていたのだが、仕事が少し落ち着いたこともあり、五年のブランクを経て、久しぶりに登山をしたいと思った。若い頃によく登っていた山。標高二千メートルほどの、中級者向けの山だ。そんなに難しいコースではない。
小さなザックに、水は1.5リットル、食料は昼食用のおにぎりと、ナッツとドライフルーツ。日帰りにはそれで十分だった。地図もコンパスも持たず、ハイキング気分で山に入った。夏の山は気持ちがいい。天気は晴れ。きれいな青天。夕立の心配はなく、軽やかな気持ちだった。
そもそも油断していたのだろうか。五年のブランクが、思っていた以上に大きかったのだろうか。
昼頃までは確かに自分の場所を把握していた。昼食のおにぎりを食べ、水を飲んで歩き出す。違和感を持ったときにはもう迷っていたらしい。どこで間違えたのか、知っている道ではない気がした。そこで戻れば良かったのかもしれない。真上から照り付けていた太陽が、少しずつ傾く。その角度で方位はわかるはずなのに、予想する道に出ない。むっとする草いきれの匂いの中、歩けど歩けど、見覚えのない景色ばかり。生憎、携帯電話の電波も届いていない。
これは迷ったか? そう思ったとき、まだどこかで楽観視していた。五年のブランクがあるとはいえ、かつては良く登った山だ。そのうち知っている道に出るはずだ。そう思いながら歩いたが、いよいよ陽が暮れだした。
薄暗くなり始めてからは早かった。あっという間に暗闇の獣道に一人取り残された。あまりの心細さにザックの肩紐をぎゅっと握る。山に入って夜になったら、動いてはいけない。鉄則だ。一日目は下山を諦めてビバークすることにした。
夜の山は静かだ。静かで暗い漆黒の世界。爽やかな針葉樹の匂いが濃く感じられ、言いようのない寂寥感が突き上げる。突然草木の揺れる物音にビクッとし、その恐怖に、人間は自然に出たら弱い獣であることを認識する。残り少ないナッツをつまむ。微かに塩味の残るクルミの皮をいつまでも噛み続け、空腹を凌ぐ。木の虚で風をしのいで少し眠った。
二日目、まだ暑くなる前、早朝から歩き出した。「遭難したら動かずに救助を待つ方がいい」とよく言う。しかし、それは俺が山に入ったことを知っている人がいる場合だ。俺に家族はなく、仕事は夏季休暇中、ハイキング気分であったから登山届も出していない。これでは、いくら待っても救助など来るはずがない。
気温が上がってくれば、飲み水が心配だ。昨日一日で下山するつもりだったからもう300ミリ程度しか残っていない。今まで歩いたところに水場はなかった。食べ物の残りはドライフルーツが数個。
今日中に下山できなかったら、危ないかもしれない。そんな考えが脳裏にちらつく。嫌な予感を振り払い、少しでも見晴らしの良いところを探し、山を登る。「遭難したら、素人は闇雲に下ってしてしまうが、それは逆に危険だ」と、それこそ死ぬほど聞いてきたし、自分でも言ってきたはずの言葉を、今怖いほど実感している。とにかく下りたくてたまらない。でも、遭難したらまず、登らないといけないのだ。見晴らしの良いところで場所を確認する。それが基本だ。
山の尾根までは行けなかったが少し見晴らしの良い場所に出た。見渡してみる。どういうことか、まるで見覚えがない。見たことのない景色に茫然とし、遠く夏天を眺める。陽が登ってきて気温が上がってきたのに、背中を冷たい汗が流れた。
これは、本格的に遭難だ。自分の居場所が、全くわからない。冷静になれ、そう思うほどに焦ってくる。二十代で登山を始めてから、こんなことは初めてだ。登山届けくらいは出すべきだったか。地図とコンパスくらい持ってくるべきだったか。若い頃によく登った山だから、という慢心か。道がわからない。場所がわからない。帰れないかもしれない。だめだ、パニックになってはいけない。とにかく、ここは見晴らしが良い分、日差しが強くて暑い。木陰を探して少し休もう。
とうとう水がなくなった。
水筒を逆さにして振っても、水は一滴も落ちてこない。太陽の位置を考えると、ちょうど正午くらいか。最後のドライフルーツを咀嚼しながら自分の唾で喉を潤そうとする。人生は登山のようなものだ、などと言う人がいるが、確かに俺は人生にも遭難していたのかもしれない。だから、急に山に登りたくなったのだ。自然を恋しく思ったのだ。それが、実際の山でも遭難するなんて、つまらない冗談だ。
途方もなく広い山。永遠に続く獣道。濃い影の落ちる足元に蟻がいる。こいつの命と俺の命、山の中では平等だ。俺は小さな蟻んこだ。
二日目も知っている道には出られなかった。水がないから歩き回るのも限界がある。喉が渇いた。腹が減った。葉をむしって噛み、苦く渋い微かな液体でどうにか口を湿らす。風のしのげそうな岩の元に汗ですえた臭いのする体を横たえる。疲労と不安でほとんど眠れなかった。
そして、三日目。早朝から歩き始めた。もう水も食料もない。草についた朝露を舐めて唇を湿らす。どうにか水場だけでも探して、喉を潤わさなければ、本気で危ないとわかっている。体が言うことを聞かないほどに、限界であることはわかっている。足元がふらついている。頭も痛いし、脱水であることは明確だ。まだそう判断できるだけ、頭はしっかりしているか。自分で自分を確認しながら、昨日と逆に今度は下った。水場を探すなら下ったほうがいい。今の状況では、下山する前に脱水と熱中症でやられてしまう。まずは水場の確保だ。
登山は、登りがきついと思われがちだが、実は下りが大変なのはあまり知られていない。まず大腿四頭筋への負担が大きい。慣れていない道だと膝関節への負担もある。加えて、今の俺は足元がふらついている。そんな状態の下りは、木の根などに躓いて転倒する危険も高い。登りより下りが大変だなんて、まるで本当に人生のようではないか。そんな安っぽい比喩でさえ、もう笑う余裕はない。ふらつきながらも歩くことは止めない。ここで止めたら、自力での下山は永遠に叶わなくなる。這ってでも動かない限り、タイムリミットを待つだけだ。
そんなことを思いながら歩いていると、ザックが木の枝にひっかかり、ぐらっとよろけた。その反動で思い切り道を踏み外した。危ない、そう思ったときにはすでに転倒し、土と草と枝に揉まれながら滑落していた。うつぶせの状態でどんどん滑り落ちていく。両手で草木や岩を必死でつかむが滑り落ちる速度に負けてつかめない。
体が地面に転がり、ゆっくり止まった。それでようやく斜面が終わったことを知った。土にまみれた顔をあげると、自分が落ちてきた斜面が見えた。10mくらいか。もっと長い斜面だったら、と思うとぞっとする。岩に頭を打たなかったのも不幸中の幸いか。しかし、必死に地面をつかもうとした両手は傷だらけで、右手の爪は剥がれかかっていた。胸と腹が痛いから汚れきった服をめくって見てみたが、大きな傷はなさそうだ。時間が経ったら、内出血で色が変わるだろう。
そのまま地面に横たわる。喉の渇きは限界を越え、唇も口の中も喉も、張り付くように乾燥している。暑い。疲れた。意識が朦朧とする。動きたくない。俺は生きて帰れるのだろうか。
そのとき、微かな音を聞いた。
チャポン……というような、それは確かに水の音に聞こえた。幻聴が聞こえ始めたか? いや、でももしかしたら水場があるのかもしれない。このままここにいたってどうしようもない。俺は、肉体にはもうない力を精神で振り絞り、どうにか起き上がった。
チャポン……やはり水の音が聞こえる。俺は歩き始めた。水の音は確かに近付いている。音に吸い寄せられるように歩き続ける。
翠緑の木々を抜けると、突然視界が開け、そこには広い湖があった。燦々と降り注ぐ太陽、きらきらと反射する透明な青。俺は足をもつれさせながら駆け寄った。
湖岸に膝をつく。透明できれいな水だ。手を浸すと冷たくて気持ちいい。水とは、なんて冷たくて気持ちいいものなのだ。ちらっと魚の影が見えた。生き物がいるということは、水に毒はないということだ。俺は両手ですくって水を飲んだ。本当は濾過して煮沸してから飲んだ方がいい。でも、今はそんなことどうでも良かった。両手ですくった水をごくごくと喉を鳴らして飲む。うまい。乾ききった体がどんどん水を吸収する。たまらなくなり、犬のように湖に顔をつけてさらに飲んだ。うまい。水はこんなにうまいんだ。
ひとしきり、満腹になるまで水を飲んで、ふーっと息を吐き、空を見上げる。青い青い昊天。今日の空はこんなにきれいだったのか。
それから俺は両手を丁寧に洗った。傷と、剥がれかかった爪が鋭く痛み、思わず声をあげた。でも、洗わないと化膿してしまう。歯をくいしばってゆっくり傷を洗った。
ふと視線を感じ、顔をあげると、少し離れたところに女性がいた。驚いた。自分に余裕がなかったから全く気付かなかったが、こんな山奥に女性が一人。
女性は薄い布を纏って、岩場に腰掛けて湖に足をつけていた。チャポンチャポン、と水面を揺らしている。この音だったのか。美しい女性だった。白い肌、青い瞳、髪は黄金のシルク。布は透明な虹色で、風もないのにゆらゆらと空中を揺蕩っていた。心なしか、周囲の景色より輝いて見える。
天女だ!
そう思った。確信した。天女なんて見たことがなかったし、伝説の類は信じるタイプではない。でも、その女性の神々しさに、天女である以外、考えられなかった。思わず見惚れた。天女は、見られていることに気付いたのか、水から足をあげ、それこそ飛ぶような速さで森へ消えた。そのときの横顔が、髪の色も瞳の色も全く違うのに、なぜか、かつて愛した女性に似ているように思えた。
水で体を潤し、天女に遭遇した俺は、生き返る思いがした。諦めたらそこで終わりだ。
俺は自分の水筒に水を補充する。これならなんとか下山できるかもしれない。いや、下山するんだ。俺は必ず生き延びる。生きて帰るんだ。透明な青い湖に強く誓って、また一歩足を踏み出した。
《おわり》
ほとんど交流のないnoterさんでしたが、絵の美しさに惹かれ、企画に参加してみました。
私は絵には詳しくないのですが、美しい青が生命力に満ちているように感じ、水と生きる力を感じました。私の表現方法は小説しかないので、このような形になりました。思っていたより長くなってしまいました。読んでくださった方、ありがとうございます。
絵そのものがすでに完成された美しさを持っているので、そこからインスピレーションをもらって書くのは難しかったですが、楽しかったです。ありがとうございました。