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エッセイの背景に透けて見える人たちへの配慮、どこまでするのか問題。

先日、エッセイが何かわからない、という記事を書いたところ、たくさんの方に読んでいただきました! ありがとうございます。

noteでもXでもコメントをいただき、普段交流のない方まで届き、「私は、エッセイとは〇〇だと思う」といったエッセイ論を語ってくださり、書いてよかった! と思いました。また、たくさんの方のお話を聞いて、とても勉強になりました。今度エッセイを書くときは、みなさんから伺ったことを参考に、より深く考えながら書くことができそうです(ほんとかな?笑)。

それで、エッセイとはなんぞや、という問題はちょっと置いていくとして……。

もうひとつ、私がエッセイについて難しい!! と思っていることがあるんです。長いタイトルにしましたが、まさに、エッセイを書くことによって透けて見えてしまう人たちへの配慮です。

人間って、たったひとりで生きてる人っていないじゃないですか?
いや、私はひとりぼっちだ、っていう方いらっしゃるかもしれないですけど、生物学的な両親は絶対にいますよね? 人として存在している以上、絶対に両親はいるので、その時点でひとりじゃないんです。

それで、エッセイが基本的に事実に基づいているとします。多少の脚色はあったとしても、まったくのフィクションではない場合、エッセイには必ず自分が反映されます。私がエッセイを書けば書くほど、私という人間がうっすら読者さんたちのなかに形作られていきます。その、「私像」みたいなものが、どこまで影響を及ぼすのか、ということを考えてしまうんです。

たとえば、私は結婚して夫がいる、と公表しています。だから、私が家庭内で起こったことをエッセイにしたら、そこには夫の存在があるわけです。私像を通して見た夫がそこにいる。夫の職場の人は、秋谷という個人を見つつ、同僚の妻を見るわけです。そのことを考えると、エッセイに自分のことを書くのが、かなり難しいと感じるときがあるのです。私が「夫」と書くとき、今のところひとりしかいないので、特定されてしまうんです。私が具体化すればするほど、夫のプライバシーが暴かれていく感覚がするんです。

私自身だけが暴かれるのは、気にならないのです。でも、私はひとりで生きているのではないので、私が暴かれるということは、私の家族、夫や両親、友人たちが暴かれるということになるのです。

夫は、そういうことはあまり気にしなさそうな人ですが、私は気にします。夫自身、個体での評価とは別に、私という人間を通した夫の評価が加わってしまう。それは、エッセイを書かなければ、本来はないことです。

配偶者やパートナーに限りません。最近は「毒親」「親ガチャ」なんて言葉もありますが、子供の頃につらい環境にいました、とエッセイに書くとします。そういうエッセイを、私も読んだことがあります。そのとき、そのエッセイで特定される親は一組しかいませんよね。それを公表するとき、親のプライバシーが暴かれることをどう受け止めればいいのでしょう。親という個人の権利はどうなっているの? 親に読まれることはないと思って書いているのか、読まれてもいいと思っているのか、読まれたあとに「なんであんなこと書いたの?」という問題には発展しないのでしょうか。親は読まなかったとしても、親の友人が読んだとき、あの人あんな人だったのね……という別視点の評価を私が勝手に書いていいのだろうか。

パートナーや子供や親のことをエッセイに書いている方々は、そのことをご本人たちは知っているのでしょうか。毎回読んでもらって、OKをもらってのせている? それぞれの家族の事情なので私が口を出すことじゃないですし、当然それは書く人の自由なんですけど、私の家族が私の断りなしに私のことをエッセイにしたら、私はちょっといやだな、って思うんです。だから、私は家族のことが書きにくいんです。(書かないとは言いません。実際、書いていますし。けど、書くのにめちゃくちゃ考えるし、勇気がいるし、めっちゃ苦手ってことです)

たとえば、私の親が、私の幼少期のエピソードをかわいいと思っていて、それを公表するとします。でも、その思い出が私にとって良いものとは限らないですよね。そこの判断を、みなさんどうしているんだろう?? という疑問があるのです。

当たり前ですが、これは家族などのことをエッセイに書いている方を批判しているのではないです。家族に限りません。職場の人だってそうです。友達のことだって、知っている人が読めばすぐにわかることがあります。先輩、とか書いても、読む人が読めばわかります。エッセイを書くことじたいで、「作者像」が明確になればなるほど暴かれていく周囲の人たちのプライバシーをどう考えればいいのか、がわからないのです。
それを、どこで線引きをしているのだろう? という疑問です。どうやって割り切っているのか。どこまでは書く、どこまでは書かない。どうやって決めているの??

自分のエッセイなんてそんなにたくさんの人に読まれないし、そんなに影響力ないよ……とか思う方もいらっしゃるかもしれませんが、昨今、何がどこまで拡散されるかわからない世の中です。Xのポストが本人の意図と関係なく万バズして、別アカの自分のところに届く、なんてことが起こる世の中です。だから、公開した時点で、全世界に届くと思って書いたほうがいいんです。

これが、小説なら気にならないのです。だって、フィクションですから。小説のなかなら、人を殺そうが、不倫しようが、世界を滅ぼそうが、そのことで私の周囲の人々のプライバシーが暴かれることはありません。「ミステリー小説を書いているからあの人の娘さんは殺人鬼だ」なんて思う人はいませんよね? だって、作り話だもん。だから、やっぱり小説のほうが自由だな、と個人的には感じてしまうんです。

エッセイを書くとき、その背景に透けて見える人は「何を書いても絶対に怒らず、何を書いてもその人の評価なんて揺らがないくらい強い存在感があって、すべてを受けいれてくれる大きな器を持った人」か、「絶対にこのエッセイを読まないだろうし、もう一生絶対に顔をあわせることもない、絶交している人」のどちらかじゃないとめちゃくちゃ気になる!!! という極端な話になってしまう感覚です。

長くなりました……。
私の、考えすぎでしょうか……?


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