小説「継続輪廻ゼロ地点」最終回
翌朝、朝飯を食べていると息子の正治がぴょこんと顔を出した。山矢がどんな男かわからなかったので、昨日は会わせていなかったのだ。正治は気になって仕方なかったらしく、興味津々の顔である。
「山矢さん、息子の正治です」
私は息子を山矢に紹介する。
「息子さんがいらしたんですね」
「ほら、正治、ご挨拶をしなさい」
「おはようございます。正治といいます」
「おはようございます。山矢といいます」
お互い挨拶を済ませると、正治は元来の人見知りを発揮し、またどこかへ逃げていってしまった。
「すみません、落ち着きのない子で」
「いいえ、利発そうなお子さんだ」
山矢はまた母と妻の作った朝飯を大量に食べ、傷の癒しをはかっているようだった。
食後の茶を飲んでいると境内のほうが騒がしい。何かと思って見に行くと、谷中村長を始め、村民たちが寺に集まってきていた。
「住職さん、おはようございます。昨日の男は無事ですか?」
「はい、今ちょうど朝飯を終えたところです」
「それは良かった」
そこへ山矢が顔を出す。村の女衆が「まあ!」と頬を染めたのがわかった。確かに、この村にはいないような男前だ。
「みなさん、昨日はありがとうございました。大変お世話になったようで」
山矢が頭を下げる。
「いいんです、いいんです。この村はみんなで協力して生活しているんです。困っているときは、お互いさまです」
谷中村長が声をかける。
「私を発見してくれた方と、傷を治療してくれた医者の先生にも挨拶をしたいのですが」
山矢が言うと、集まっていた村民の中から松山さんと壺阪先生も出てきて、山矢は二人にも礼を言った。
山矢の傷は、異常な早さで治癒した。壺阪先生も驚いていたが、ほんの数日で抜糸できるほどだった。傷が完治するまでの間も、痛そうな素振りはなく、意識を失っていた男とは思えなかった。村民の畑仕事や老人宅の力仕事など率先して手伝い、皆に慕われた。子供たちともよく遊び、度胸試しとされている高い岩からの川への飛び込みもあっさりと難なくこなし、子供たちから尊敬の目で見られた。
無表情ではあるが、性根は優しいのであろう。私はこのまま山神村に住んでもらってもいいのではないかと思うようになった。
傷が完治してしばらくした夕飯の席で山矢は、そろそろ村を出ると言った。村に来て、数週間が経っていた。
「いつまでもお世話になるわけにはいきません。また荒草は私のところに現れますし、村のみなさんに迷惑をかけるわけにはいきません」
私は引き止めたかった。感情の読み取りにくい男だが、悪い男ではないと思っていたからだ。それどころか、私はこの男にかなり好感を持っていた。それは村民も同じだろう。村を離れるとなったら、皆寂しがる。
しかし、先代は「わかりました」とすぐに了承した。
「流浪の身もよろしいですが、山矢さんが思う、人助けのできる仕事をなさったらいかがですか?」
「人助けの仕事、ですか?」
「はい。都会のほうに、この村の出身で今は板前をやっている男がいます。面倒見の良い男です。彼に、連絡をしておきます。何か仕事をして、困っている人の力になる。そんな生き方も、あるのではないでしょうか。この村は平和です。皆で協力して生活できています。でも、都会は孤独です。その分、困っている人は多いでしょう。あなたの力が役に立つ場所が、きっと見つかるはずです」
「そんな場所が見つかるでしょうか」
「はい。──ときどき、月の見えない暗い夜がありますよね?」
「月……ですか?」
「はい。月明りがなく、真っ暗で、心細い夜です。誰にでも、そんな夜があるものです。しかし、月は見えなくても、なくなってしまうことはありません。いつか必ず雲が晴れて、月光が道を照らしてくれることでしょう」
先代の言葉に、山矢はすっと目を細め、頭を下げた。
先代は、都会で板前をしている男の住所を山矢に渡した。
「えー! 山矢さん、どこか行っちゃうの?」
一緒に暮らすうちにすっかり懐いていた正治が、寂しそうに駆け寄った。
「あぁ。自分の居場所を見つけてみるよ」
「山矢さんの居場所なら、この村でいいよ!」
正治が駄々をこねるのを見て、山矢はほんの少し口角をあげて、ぽんと頭を撫でた。
「ここはあなたの故郷です。いつでもいらしてくださいね」
先代はそう言って、山矢と握手を交わした。
翌日、山矢が村を去ると知った村民たちが皆集まった。口々に寂しいと言い合ったが、山矢が新しい生き方を選択することを、止めるものはいなかった。
「山矢さん、いつでも帰ってきてくださいね。この村を、故郷と思ってください」
谷中村長は、先代と同じ言葉を山矢に送った。
「ありがとうございます。本当にお世話になりました」
すっきりと晴れた初冬の空のもと、旅立つ男の姿が小さくなっていく。山から吹く風が、心なしかいつもより柔らかく感じた。
これは別れではなく、これから始まる彼の、長い人生の門出であった。
《おわり》