ある大学教授への手紙
久しぶり、聞いてほしい。
貴殿の、ぼくへの前の長いメッセンジャーは、後できちんと見ようと思っていたまま、投獄されて出所はしたがスマホを押収されているので見れない。
申し訳ない。当面、それをみないまま、勝手にメールさせてもらう。いささか、批判もするから、怒らないで聞いてほしい。貴殿を憎んだり、腹を立てたりしているのではない。大事な、資本主義社会批判のつもりで、それに貴殿もぼくも巻き込まれている、という観測や。
ぼくの投獄については、びっくりしはるかもしれないが、文をひとつ付ける。
まず、君のメッセンジャーは見れてないと言うたが、これまで聞いたことについて。
君は、僕がメールを送ることについて、迷惑がり、そのスタイルについても文句を言い、ブロックまでほのめかしていた。
もちろんきみの自由権はあり、ぼくとしては聞かざるを得ないが、一面、正直ばかばかしくも思える。これについては、これ以上言わない。
また、きみは、ぼくのきみの学者としての態度への批判、というてええのかな?つまり前にした「後近代学知論」に対して、
・自分もしんどい
・自分にも生活がある
・大学や、きみやTなどの大学人にも立場がある
旨のことを縷々述べていた。
それらは、みな正しいわ。否定せん。
しかし、それでもそれにはあまり意味がないのや。部分肯定・総体否定、というやつや。
それを、できるだけ説明したい。
問題は、きみとぼくやTとかの個人の問題ではない。
個人としては、おためごかしではなく、きみも、T氏も、なんならぼくかて、
皆申し分ないのではないか?
君もTもしっかり大事な社会的労働をなし、大学に拠ってむしろ現体制批判を繰り広げている。
ぼくと同じ立場で、それ以上に苦労して働き、闘っているし、ぼくも君らを尊敬し、友愛の念を持って付き合うています。
しかし、それでもきみのやっていることには「問題」が見え隠れする。
だから、問題はきみ・T・ぼく個人のことではなく、広い意味での階級闘争、なんならぼくの言う構造闘争の問題。社会の問題なのや。
単純な階級闘争論では、朝鮮人のプロレタリアと日本人のプロレタリアは、共同してブルジョワジーに立ち向かうとされる。
しかし、現実には日本人プロレタリアは、朝鮮人プロレタリアを差別する。
ここで、ぼくは日本人プロレタリアは、その階級的プロレタリア性をもったまま、「構造的」にブルジョワジーである、と考える。
70‐80年代、日本は「一億総中流社会」を実現した、とぼくは思う。生活水準も例外はあれど平均に近づき、意識の上でも、皆確かに平等であった。
日本国家は、まさに「社会主義」を相対的に実現していた、と思う。
しかし、日本国民のその社会主義は、日本国家まるごとが第三世界を間接的に経済支配したうえでの、上位国家集団のなかでの自由・平等と繁栄。
つまり、日本帝国主義を前提とした、いわば「帝国社会主義」であった。
古代ギリシアの民主主義が奴隷制の上での民主主義であったのと同じで、ギリシアは総体としては非民主であったように、日本国民の社会主義は総体的には、つまり世界的には、結局ブルジョワ独裁であった。
この、日本プロレタリアートと日本ブルジョワジーが日本国民として一体化した体制も、ぼくは構造ブルジョワジーと呼ぶ。
この場合、構造プロレタリアートは第三世界国民やな。
これは、戦前第一次世界大戦・シベリア出兵のころと似ている。大陸でロシア革命が勃発し、日本プロレタリアートはコメ不足で暴れた。米騒動や。かれらの更なる革命化をおそれた日本ブルジョワジーは、植民地台湾・朝鮮に産米増殖計画をひき、強制的な労働を強いて、日本プロレタリアートに安価なコメを供給した。
そして日本プロレタリアートをいわば買収し、日本国民はプロ・ブル一体となり、植民地に君臨した。これも、構造ブルジョワジーによる帝国社会主義である。
戦後は日本国の好景気により、日本ブルジョワジーは日本プロレタリアートに剰余価値の一部を返済し、相対的に高い給料で買収し、第三世界と、それに連帯する学生たちの世界革命運動を鎮圧した。68年革命は、買収された学生たちが、みずから日本プロレタリアートその実、構造日本国ブルジョワジーに転向していくことにより、失敗したわけや。
ついでに、資本主義史は、
重商主義-自由主義ー新重商主義(帝国主義)-新自由主義(グローバル資本主義)と展開する。
「重商構造」と「自由構造」が反復している。
重商とは、「国家(構造)」による保護のことで、自由は「資本(階級)」の自由である。
だから、資本主義史は資本と国家との関係の取り方の反復で特徴づけられるし、帝国主義やグローバル資本主義の秘密、ひいては国家の秘密にも、ここから迫れよう。
すまん、
ながなが脱線したが、きみは階級的にはたしかにぼくと同じプロレタリアであるが、どこか構造的にブルジョワなのや。
おそらく、大学教授という特権を享受しているから、「知的・大学構造的ブルジョワ」なのであろう。
「近代知」による、「知的搾取」にのっかっている。
これは君個人がわるいのでなく、男性が構造的にブルジョワ化し、性的搾取をしているのと同じ構造やな。
僕はこの近代知の搾取構造に反対し、後近代知革命を目指している。
「牛飼いが歌詠むときに世の中の、新しき歌大いに興る」わけや。
搾取というても、きみは反応が鈍い。
「ネットがあればどこでも知的労働は可能」で、「大学人も苦労している」というかもしれない。
しかしそれは、部分的は正しく、総体として間違うている。
ここで、マルクス「アンチルーゲ論文」を読み返してほしい。
ブルジョワジーは「政治的理解力」をもつが、これは鈍感ということである。
「もてる者」はこうなんや。
一方、もたざるプロレタリアは、「社会的本能」により鋭敏である。
灘のやつらは、ええやつらやわな。
しかし、彼らは階級的にも構造的にもブルジョワで、ずいぶん「社会的に」堕落しているであろう。
もちろん、彼らも立派な働きはしているし、苦労しているし、家族を養い、立派な生活をしている。思想も素晴らしい。しかし、総体的には堕落していると思う。
きみもTも、「立派な学者・近代知者」やが、時代は後近代前夜の近代後期、東大生が落ちこぼれる時代になった。
君もTも、気づいてないが、学的にも学者的にも、没落しかけている。
しかし、それを指摘しても自分の了見でもって反論する、つまり政治的理解力で考えるから、
「自分の了見」=「ブルジョワイデオロギー」=「近代知の地平」をよう出ない。
ぼくはプロレタリア化してから、「よく見える」ようになった。
社会や知や人々がよく見えるようになったのは、ぼくの実感や。
つまり社会的本能が備わってきた。
社会的に考えてるからや。
「われ思う故にわれあり」は近代知であり、間違いや。
ぼくに言わせると、「われわれ思う(働く)、故にわれあり」や。
われわれで考える、つまりみんなの中で生活し、そして考えるのや。
みんな、というのは構造的・階級的ブルジョワジーつまり上流階級でなく、それらを含んでも別に良いが、「庶民」のことよ。「大学の同僚」では、はっきり言うてダメ。
結論やが、君は学的にも没落しかけていないか?
わたしの言うこと(日頃のぼくの学説も、このメールの意味も)が分かってないやろう?
もう、ぼくもいろいろ言われたし、きみにはメール送ってないし、もう議論もせんで。
君が学的にどうするかは、きみの判断に任せる。
きみは依然よき人・よき友人やが、しばし距離がはなれるのかな。
Tともfbで距離を置く機能を使っている。
階級闘争やからな。
もちろん、「あなたをぶちたたく」というような粗野な闘争ではない。
階級闘争とは、この近代後期=人類前史末期=黙示録的時代で粛々と生活することや。
追記
「知的搾取」について。
ぼくには自明なので、本文では説明しませんでした。
要は、知の独占。
学問は面白く、だれもが親しめるはずのものやのに、
事実上知的エリートつまり知的ブルジョワジーが独占しています。
これが、近代知=知の近代体制です。
そもそも、大衆は学知に関心をもたず、勉強しようとしない。
これは学校で疎外され、勉強が嫌いになったからや!
そもそも近代知体制は、知のためでなく、資本の利益のための体制や。
なかで、勉強に関心をもったやつも、大学受験で撥ねられるがな。
高いし!学費。
大学には、無試験・無償いや食住付きで行けるようにすべきちゃうんか?
大衆は論文書こうと思い付きもせんし、書いても発表する場がない。わしやんけ。
学者は、象牙の塔に閉じこもっている。
ある大学教授など、資金繰りに困る院生に、「お金のない人はこんなとこ来ちゃいけないんだよ」言うたで。
勉強ができるやつが知を独占するのも問題やが、それどころか金のあるやつとその家系が知を独占しとるやんけ。
大学の論文雑誌「紀要」、なにあれ?
あんな雑誌だれが読むのん?
ここだけに権威と権力があるのがおかしいがな。
例えば、SNSが学知の中心になればよい。ユーチューブもな。段々自然になりつつあるぞ?
象牙の塔つまり大学の独占を破壊し、「牛飼い」大衆に、学知へのアクセスと社会的な力を与えること、これが学知の後近代革命である。