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多文化社会での保育とアドラー心理学②(違いを認める)


カナダでの保育は子ども中心です。

子ども、大人(家族/保育士)、コミュニティが三位一体で行う事が前提ではありますが、基本的に「子どもにとって一番いい事・必要な事」が中心にあります。

アドラー心理学でも子どもでも大人でも対等である事は重きを置かれていますが、私たちは子どもに対しても保護者の方たちに対しても、対等の立場で、同じ目標に向かっていく仲間のような関係です。

子ども達が自立した、責任感を持つ、他人を思いやりつつ自分の意見もしっかりと伝えられる大人へと成長していく為の過程を一緒に模索しています。


コミュニケーション能力は国や時代に関係なく生きていく為に必要なスキルですが、その場所によってどのような方法が求められるかは違ってくると思うんです。


日本であれば「言わなくても察する」「暗黙の了解」などが根本にありますよね。

これは日本が「日本人」が大半を占めている国だからこそ成り立つ文化です。

日本国内でも地域や年代によっての違いはあるものの、根本的な善悪や普通とされる常識は大半の人たちが似通ったものを持っているから、例え言葉にしてなくても読み取ることが可能なわけです。

国語の授業はそれが顕著だと思います。

一つの物語を読んで、その時の作者やキャラクターの気持ちを読み解き、自分の意見ではなく、この状況、この人ならどう思うかという一つの答えを導き出す

けれどこちらの国語の授業では、答えは一つではありません

例え大半の人が同じ答えを持っていたとしても、個々でそれなりに筋が通った理由を説明できるのであれば、答えは同じではなくては良いのです。

私がこちらで国語の授業を受けた時はある意味ショックでした。

そんな屁理屈のような答えでも、ある意味筋が通っていれば良いのか、だからこっちの人たちは口が上手くて屁理屈をこねる人が多いのかと。(すみません、個人的意見です)


保育においてもそこは一緒で、答えは決して一つではありません。

「良い子」とされる定義も一つではありません。

カナダ、特にバンクーバーには色々な国から来ている移民で成り立っている街なので、親御さんの文化や宗教、国柄によっても求められることがかなり違います。

けれどその色々な意見を全て叶えるのは難しく、基本はそれぞれの園の方針によって進んでいきますが、その代表的なものが「Child Center・子ども中心」です。

これだけを言うと「子どもがボス」と受け取られる事もあるのですが、決してそうではありません。

勿論そういう対応をしている人たちもいるのですが、ここでいうChild Centerとは、あくまで子どもを一人の人間として尊重するという事です。

「どうせ子どもだから出来ない」
「どうせ子どもだからわからない」

そんな事はある意味当たり前なんです。

子ども達はこの世に生まれまだ数年。

私がカナダに来たのは20代半ばの時でしたが、最初の数年何て何が起こっても右往左往していました。

初めての事はわからない、出来ないなんて当たり前の事なんです。

そんな子ども達に対して、どうすれば良いのか、どうすれば出来るようになるのか、という事を一緒に考え、体験する機会を与える事がChild Centerなんです。

正直時間はかかるし、見ている方はまどろっこしいです。

してあげた方が、教えてあげた方がどんなに早いか。

でも、自分達大人が出来る事や知っている事、その方法が必ずしも正解ではありません。

この「普通」を決める事が難しい、でもみんながそれぞれ支え合って共存している街でわかった事はお互いを認める大切さ。

意見が違っても良いんです。

同調しなくても大丈夫です。

ただ、この人は、この子は、この家族はこういう考えを持っていてこうしているんだと認め、理解する事。

その上で一緒に生活をしていく為にどうすれば良いのかという話し合いと妥協点の模索。

これはカナダの他者の違いを受け入れて共存していく、という保育方針とアドラー心理学の子ども達を一人の人間としてありのまま受け入れる、という類似点でもあります。


そしてそれはアドラー心理学ではよく聞く「褒めない・叱らない」子育て、保育に繋がっていきます。



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