バンコクで入院した話
今回はタイの首都バンコクで入院した時の話を書こう。
僕は25歳から27歳のころ(15〜17年前)バンコクに住んでプロボクサーとして活動していた。入院したのは、住み始めて半年ほど経ってからのことだ。入院の原因は一言で、オーバーワークといって良いだろう。
僕はタイでのデビュー戦で敗れた相手との再戦の準備で張り切り過ぎたのだ。
毎日のサンドバッグ打ちの際にフルスピードフルパワーで左右のストレートをインターバルなしで打ち続け、その時間を毎日少しづつ増やしていき、それが十分を越えたあたりでガクッときた。
その夜は吐いて下痢をして、次の日は動けずにジムを休んだ。そして当時日本のジムから武者修行に来ていた日本人プロボクサーが部屋を訪ねてきてくれて、真っ青な顔で立つことさえままならない僕を見た彼の説得に応じ、そのまま歩いて2、3分の病院まで連れていかれた。
夕方過ぎ、日は暮れていたと思う。
病院に着くなり椅子にへたり込んで真っ直ぐに座れない僕を見て、受付にいた男性(当直の医師だったのかもしれない)が「すぐに入院しろ」と言った。僕が「保険に入っていないので無理だ。お金がない」と答えると、男性は「大丈夫だ。この病院は王様の資金で運営している貧しい人のための特別のプログラムがある。入院費はとても安い」と返すので、その言葉にすぐさま頷いて入院する意思を伝えた。
程なくして看護婦さんによって運ばれてきた車椅子でそのまま病室へと運ばれた。
車椅子とはこんなに楽なものなのか!?とまるで天国までの道を上っているかのように思わず表情が崩れた。
しかし実際には、1週間の入院生活はどちらかというと地獄に近かった。
入院したその夜のことはあまり覚えていない。ただ、体重が1日で7キロ落ちていて、「減量しなくて済む」と試合のことを考えていたのは覚えている。
病室はL字型になっていて、20床以上あっただろうか。
僕はそれからの1週間を、ベッドの上で始終点滴をしながら過ごした。
僕の左隣の入院患者はいつもニコニコしているおじいちゃんだった。おじいちゃんはいつもニコニコして両手を合わせて「サワディーカップ」と言って挨拶してくる。
右隣は、僕が入院したその日の晩だったか、次の日だったかに運ばれてきた全身刺青だらけのヤク中のような男で、彼は毎日何度も痰を吐いていた。今僕の頭の中に残っているイメージとしては、1時間数度ずつといった程度だろうか。
カーテンを閉めればいいのだが、カーテンレールは僕のベッドの真上を通過しており、それぞれのプライバシーを守る筈のカーテンを閉めることが出来ない。
部屋には20床以上のベッドが設けられているとはいえ、実際にはベッドはその半分も埋まっていない。カーテンレールに沿ってベッドを並べたところで、ベッドが足りなくなるなどということはない。
看護婦さんたちは、いつもむっつりとしていて、何かを話した記憶もない。彼女たちは点滴を変え、お粥を運んでくるだけの存在だった。こちらが笑顔を作って何か言おうとも、無愛想に返ってくるだけだった。ロボットだったとしたらそちらの方まだマシとも思える程で、とても白衣の天使とは呼び難い。
「ここは地獄だ」と気付いたのは、隣のおじいちゃんのシーツの交換の際の出来事だ。
いつもニコニコしているおじいちゃんが、1日1度、シーツ交換の際にヒーヒーと悲鳴をあげる。
恐る恐る隣のおじいちゃんを見てみると、おじいちゃんが看護婦さん四人がかりでシーツから引き剥がそうとしているところだった。
そして僕はおじいちゃんの背中とシーツが引き離される瞬間と、おじいちゃんの背中を見てしまった。
おじいちゃんの背中は赤い肉と脂肪がむき出しで、中心にはしる背骨らしき白いものも見えていた。
おじいちゃんとシーツは、彼の血で張り付いていたのだ。
いつもニコニコしていたのは、アレは明らかにモルヒネかなにかの麻薬なのだろう。
その麻薬が効かないほどの苦痛を1日に1度味わう。
こちらも毎日おじいちゃんの悲鳴を聞く。
ある時、おじいちゃんに息子夫婦に見える男女の面会が来ていた。
おじいちゃんは、彼らにいつものようにニコニコして両手を合わせてサワディーカップと弱々しい声で挨拶をする。僕と息子の見分けがついているのかも怪しい。
面会の二人も心配して話し合っているが、おじいちゃんとやり取りをすることはない。
人生の終末に誰とも意思疎通することも出来ず、1日に1度苦痛に耐えきれなくて悲鳴をあげる。しかしおそらくそれも程なく忘れ、いつもニコニコしている。
それを見ている僕からは地獄にしか見えないが、おじいちゃんの頭の中に何が映し出され、何が記憶されているのかは分からない。
看護婦さんたちが実際にどういう性格の持ち主なのかは分からないが、彼女たちが感情を殺そうとするのもよく分かる気がした。
いつだったか、マレーシアで知り合った日本人の女の子にこのおじいちゃんの話をしたことがある。元看護婦だったという彼女は「そう、床ずれって大変なんだよね」と言って顔をしかめた。
とても明るくて楽しい人だったが、彼女が看護婦を辞めた理由がそういうことだったのならそれはとてもよく理解出来る。
他の入院患者にもユニークな入院患者がいた。
びっくりしたのは、頭が凹んでいる人だ。
それも少々どころではなく一目で分かる程で、外見でも半分近くが凹んでいた。おそらく、右脳だか左脳だかが完全に欠損しているのだろう。
とはいえ、エル字型の病室の曲がった先にあるベッドが彼の居場所だったらしく、彼を見たのは、彼がちゃんと立って、歩き、医師か看護師か、或いは他の入院患者かと話しているところだったので(意思の疎通がきちんと出来ていたのかは不明だったのだが)、「これで生活出来るの!?」と随分と驚いたものだった。
このような入院生活にも救いはあった。それも二つ。
一つは、病院に連れてきてくれた日本人ボクサー氏が、毎日見舞いに来てくれたことだ。
僕らが根城にしていたアパートと病院、そしてジムは病院を中心にしてそれぞれ歩いて二、三分程度しか離れていないこともあり、彼は毎日、例えばコンビニで買った氷入りのコーラや屋台で買ってきた揚げバナナを土産に持ってきてくれたし、1度は仲の良いジムメイトの若いムエタイ選手、ダオチャイを連れてきてくれた。ダオチャイは、点滴のお陰か幾分元気になった僕を見て「ダイジョーブダイジョーブ!」と日本語で言った。長い1日を過ごす病院に訪れる1日1度のその時間は、僕にとって唯一気が休まる時間だったし、お粥と点滴と無愛想な看護婦、悲鳴をあげるおじいちゃん、痰を吐き続けるヤク中だけの日常、そして既に1ヶ月を切っていた試合への不安、そういったものを一瞬忘れさせてくれる時間だった。
もう一つの救いは、一冊の『コロコロコミック』だった。
入院して数日経つと、僕はある程度体力を回復していた。げっそりしていた頰も心なしか膨らんでいる。
そうなってくるとベッドの上でただ寝ているだけという生活に耐えられなくなり、僕は点滴を傍らに病院を歩き回った。
各階には本を置くラックがあったので、何処かに日本語の本はないか、と探し回った。そして一冊だけ見つけたのが(当時で既に)20年くらい前の『コロコロコミック』だったのだ。僕はそれを病室に持ち帰った。
確か、有名どころでは「ダッシュ四駆郎」などが連載されている頃のものだったように思う。持ち帰ったのは良いが、子供向け、というより幼児向けの漫画雑誌だ。読み始めはするものの、結局は最後まで読めないものばかりだったが、二つだけちゃんと読めて、ちゃんと楽しめるものがあった。
それが、「ドラえもん」と「おぼっちゃまくん」だった。
他の漫画とは違って構成がしっかりしていて、ドラえもんに関しては一つ一つのカットが素晴らしく、「おぼっちゃまくん」はオチがしっかりと決まっていた(勿論笑えはしないのだけど)。
僕はこの二つを繰り返し繰り返し読んだ。1日に何度も、退院の日までずっと。やはり残る漫画家は違うんだな、と思った。
ある日、看護婦長さんが「明日退院できるわよ」と笑顔で言ってきた。看護婦連中の中で唯一笑顔をくれた人だった。
もう試合の不安など忘れてしまうほどに嬉しかった。
そして待ちに待った次の日、医者に「まだ少し熱があるし、数値が悪いのでまだもう少し退院は先にした方が良い」と言われたので、傍の看護婦長を指差して「いやこの人が明日退院して良いって言ったし!」と猛抗議して退院させて貰った。
確か、掛かった費用は1日あたり日本円にして百円前後だったかと思う。
王様の権威はそのように守られているのか、と分かった気がした。
帰り際、僕を救ってくれた『コロコロコミック』を(どうせ誰も読めないのだし)持って帰ろうかと思ったが、もしかしたらまた誰か日本人が入院するかもしれないと思ってもとあった棚に戻しておいた。
そしてその足で、中華街(僕は中華街の外れに住んでいた)の中心地であるヤワラーという通りに行った。
おそらくいつものように、プーパッポンカリーと(蟹の甲羅を叩き割って鶏卵とカレーソースで味付けをたもの)とオースワン(牡蠣がたっぷり入ったお好み焼きのようなもの)、そして海老の炭火焼きを頼んだのではないかと思うが、食欲の問題でオースワンだけだったかっもしれない。ビールはどうだっただろう?次の日から試合の準備に取り掛かる必要があったので我慢したかもしれない。
しかし生ビールを一杯くらいは飲んだ気もする。
入院以前は毎日10キロ前後走っていたのに退院後は3キロ以上走れなくなり、スピードは落ちていたなかったものの押しの強さ、パワーは明らかに落ちていた。
そして、入院時には7キロ落ちていた筈の体重は全く元どおりに戻っていて、やはり減量の必要があった。
当たり前なのかも知れないが、結局試合には負けてしまった。
同じ相手に2度負けてしまったわけだが、僕は自分に何度も肘打ちをしてきた(ムエタイでは当たり前の技術だが、ボクシングでは勿論反則だ。しかし外国人である僕相手にして反則をとるレフェリーはいない)対戦相手と笑顔で握手をした。
だいたい僕は負けず嫌いで根性が悪いので、負け試合を終えた直後に相手と仲良く握手などはできない人間だ。
それでも笑顔で握手ができたのは、生きて試合を終えた、その満足感からだったのだろう。
今では、このバンコクの中華街にある病院に入院した際の話は、飲みなどの際によく話すネタになっている。色々と大変だったが、今となっては経験しておいて良かったと思っている。
(この写真はムエタイのキャリア後に3戦目でボクシングの世界タイトルを獲得したセンサック・ムアンスリンとの写真です。ガッツ石松の挑戦を受けて来日した際は、試合前に風俗店に行くなどした豪傑ボクサーとして知られていますが、写真を撮った当時はとても穏やかで紳士的に見えました。写真を見ていて気付いたのですが、右目を失明しているようです。センサックは2009年に57歳で亡くなっています)