【映画】『ジョジョ・ラビット』と『リチャード・ジュエル』の作りについて。
今月2日の日曜日に『ジョジョ・ラビット』、3日の月曜日にクリント・イーストウッド監督『リチャード・ジュエル』見ました。
この二つの映画が、それぞれ正反対と言っても良いくらいに全く異なる構成になっていたので、少し変速的ではありますが、両作品を紹介しながらその違いについて考えていきたいと思います。
まず『ジョジョラビット』について。
これはここ10年ほど? 流行している? ナチスもので、ベルリンを舞台にした作品です。
主人公のジョジョはナチス少年団の一員ですが、「ウサギのように臆病だ」という意味で「ジョジョラビット」と呼ばれています。
彼には彼の空想の友ヒトラーがおり、その幻のヒトラーによって少年団としてのプライドを支えられています。
この映画のスジは4つ。
1、母親がレジスタンスとして活動していること。
2、その母親によって匿われているユダヤ人少女とジョジョの関係の変化。
3、ジョジョに強くあたって臆病なウサギと呼んだ大佐の変化。
4、上記2つを経てのジョジョの心境の変化。
幻のヒトラーは、ジョジョの変化を印象付けるための道化と言えるでしょう。
次に『リチャード・ジュエル』。
この映画についての感想としては、友人の「最近のイーストウッドは傑作はないけどどれも巧いと感じる」という言葉が適当でしょうか。
この映画は実際にあったアトランタオリンピックの前夜祭における、複数の死傷者を含む爆破事件が元ネタになっており、タイトルはその時の冤罪被害者本人の名前がそのまま使われ、映画としてはひたすら彼を追っていく作りになっています。
『リチャード・ジュエル』は、最初余りにも恣意的に作られているように感じました。
FBIやメディアに加え、ジュエルがセキュリティー要員として務めた大学の学長の、そのあまりにも典型的な悪役ぶり、そして最初「知的障害なのか!?」と思わされる程のジュエルのFBIに対する対応。
これらが余りにもあからさま過ぎて、その作為的な演出にゲンナリしました。
このジュエルを見ていて、フィギュアスケートのトーニャ・ハーディングを描いた『アイ、トーニャーー史上最大のスキャンダル』を思い出したのですが、『アイ、トーニャ〜』のショーン・エッカート役が、やはりこの作品でジュエル役を演じたポール・ウォルター・ハウザーだったようです。ちなみに、このエッカート役というのは実在を疑わしく思う程の病的なホラ吹きで、すぐバレる嘘を吐き続けます(『ブラッククランズマン』にも出演していたようですが、これはちょっと思い出せませんでした)。
つづけて『リチャード・ジュエル』の“作り”について。
ジュエルは当初余りにも愚かに愚かに見えたのですが、それが本人の法執行官としてのプライドと、長年の夢でもあった法執行官としての復職とそこからくる権力への盲従が原因だったと分かると合点がいきます。
誰しも、子供の頃からの夢とそれを叶えるための努力と費やした時間からはなかなか逃れられないものでしょう。
しかし、ラストシーンに見るジュエルの姿は、弁護士や母親らの助けを借りてこの事件を乗り越えた成長を感じさせるものでした。
当初余りにもあからさまと思えた作りも、このジュエルの変化を印象付ける為の演出だと思えば納得です。
事実に基づく話ですら、余りにも事実とかけ離れた演出は出来ないでしょう。
そういった制約の中で『リチャード・ジュエル』はとても巧くまとめられていると思います。
さて、やっと『ジョジョ・ラビット』の“作り”に移りましょう。
コメディータッチでちゃんと感動ポイントを抑えていますが、冒頭で紹介した
1、母親がレジスタンスとして活動していること。
2、その母親によって匿われているユダヤ人少女とジョジョの関係の変化。
3、ジョジョに強くあたって臆病なウサギと呼んだ大佐の変化。
4、上記2つを経てのジョジョの心境の変化。
という4つのスジと共に、裏切り者と呼ばれ、すでに亡くなっている
父親も含めて内容は盛り沢山です。
しかし、盛り沢山ではありますが、特に重要であるジョジョの変化を含めて、それらの全てが中途半端に描かれているという印象です。
この『ジョジョ・ラビット』は幾つものスジをコメディータッチで纏めようとした挑戦的な作品なのだろうとは思います。
しかしその分、当初目的としたであろう、政治的に印象付けられた善悪の印象よりも強い「愛」の力、ジョジョの母への、そして母のジョジョへの、ジョジョのユダヤ人少女、そして当初ジョジョに強くあたり、そして最後にジョジョを救う大佐のジョジョへの愛など、そういった人間が持つ根源的な感情をえがこうとしたにも関わらず、ストーリーとしての流れの中で扱うにはあまりにも尺が短過ぎ、ぶつ切りのシーンを並べただけに見えてしまったのはとても残念です。
特に、大佐の変化については僕はかなりグッとくるものがありました。
これをコメディータッチにする必要があったのかちょっと理解出来ませんでした。
結論としては、『リチャード・ジュエル』がジュエルの心境の変化、それ一本に全てが集約するように作られているのに対し、『ジョジョ・ラビット』は色々と盛り込もうとし過ぎて最大の目的を果たしきれていないように思えます。
まあ、それにはジョジョがあまりにも幼過ぎて、社会や人に対する様々な感情を抱き、それを描くのは難しいという点もあるでしょう。
しかし、比較してジュエルの価値観形成に多く影響を与えたであろう母親のスピーチと、そしてクライマックスのFBIに対する意思表明におけるジュエルの変化は、この2人の変化とこの物語の仕組みを端的に表しており、とても良いと思います。そしてこれがとても印象的に思えるのは、FBIなどの冤罪を作り出す側のあからさまな態度との対比の上でこそ明らかになったものです。
これに、僕は上手いなあ、と感じました。
盛り上げるだけでは話は盛り上がりませんよ、という構成。
事実を基にした作品というその制約の中でのイーストウッドの「巧さ」なのではないかと。
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