考察:私が支配されたいワケ
ドミナントとサブミッシブ。
この前やった「性癖診断」で最終的に100%サブミッシブ
という結果が出てから、
ちょっとどういうことかなって気になったし、
自分って何なの?って知りたくなって、考えてみることにした。
そもそも「サブ」と「M」、
どう違うのかもよくわかっていなくて。
でも調べてみるとどうも「M」は肉体的な痛みを伴うもの、
「サブ」は精神的な被支配を求めるところが始まり(そこから痛みにつながるのはアリみたい)という感じかなと。
そう考えてみると、私は基本、サブで、
そこに端を発してM的要素も生まれているのだと理解した。
突き詰めて考えると、私が求めているのは「支配」。
相手に、精神的に、ひいては肉体的にも支配して欲しいのだ。
どうしてか。
縛られたい、拘束されたいと、行為を願う理由は別の記事で考察済みだけれど、「支配されること」を通して私は何を得ているのかというところが気になった。
私の中でドミ代表はカナメさんなので、カナメさんで考えてみたいと思う。
カナメさんと私は、DMでも会った時もめちゃくちゃ会話している。
・何をしてみたいか。
・どこまではOKでどこからはNGか。
・NGの理由は何か。
・どんな流れでしたいか。
・痛みはどの部位にどの程度までなら快感と感じるか。
・あれはすごく気持ちよかったけれど
あれはもうちょっとこうだったらさらに良かった。
というプレイそのものに関するものから、
・こんな道具見つけて興奮した!
・こんな言葉でどきどきしてる!
・こんな映画のこんなシーンで妄想したらやばかった!
など、
「興奮」「快感」につながるありとあらゆるものについてしょっちゅう、かなりあけすけに、というか、私の感覚から言うとすごくストイックに話している。
それがベースにあるからこそ、プレイの時に不安に思ったりイヤだと思ったりしたことは一度も無い。
これはタツキくんにも言えることだけど、
彼らは私がその日その瞬間に求めているものを的確に把握して、
その一歩先、NGの一歩手前のギリギリを責めて、毎回新しいフェーズに連れて行ってくれる。
本当にすごいと思うし尊敬と感謝の気持ちでいっぱいだ。
(タツキくんは恐るべき動物的勘ですべて感覚的にわかってしまうので
そこは天性のものなんだなと思う。)
この前カナメさんとご飯を食べた時に聞いた話。
私が快感を求めることに貪欲で正直で、感応性も高い、すごく珍しい存在だっていう話から、
じゃあみんなはどうなの?ってなって。
カナメさん曰く
「まず自分の快感を認めることすら
できない子が多い、
そこから逃げたいから集中もできない、
今ここで話してるりんちゃんみたいな
正気の目をしてるんだよ、
大体目、開いてる時は
集中できてないんだけどね、
で、
わざわざセラピストに
会いに来てるってことは
それがしたいはずなのに、
『そういうことしに来たわけじゃ
ないから今日はいいや』とか
言うんだよね。
それがどこまで本音で
どこからが嘘っていうのを
オレらは見極めなきゃいけないし、
正しく見極めた上で
正しい位置まで踏み込むのは
結構難しいんだよね」
だそうで。
そっか、そんな風にじっくりしっかり見極めてくれるから
いつも彼らの責めは「正しい」んだ。
じゃあどうして見極められるのか。
「死ぬほど見てるよ、会ってる時。
体温や呼吸の速さやしゃべるスピード、
目線、手の温度、歩幅、
まばたきの仕方、視線、汗…
そういうの全部ずっと、
めっちゃ見てる」
私が緊張している時は、黙っていてもそっと優しく抱きしめてくれて
一緒に深呼吸してリラックスするまで待ってくれたこともあった。
我慢できないと思っている時は、ドアを開けた瞬間キスで襲ってくれたこともあった。
なんでわかるのって思ったけれど、それは、「見て」くれていたからだったんだ。
そう、そういう人だからこそ、手足が動かない状態で拘束されることに
何の恐怖心も抱かないし、むしろ歓びを感じるのだと思う。
つまり、私が彼らに支配され、従うことで得ているのは
「私のことを完璧にわかってくれて
受け容れてくれている」
という
絶対的な「安心感」
なのだと知った。
ドミやSの人は、自分がこれをやりたいと思っていることをただやればいいわけではない。
それではただの暴力だ。
彼らは、相手が望んでいることを把握し、咀嚼し、ワンランクアップさせてそれを与え、それを通して相手も自分も快感へ導くのだ。
その瞬間、そこには単なる主従関係ではなく、相互理解に基づき相手をリスペクトし労わる、深い絆が生まれているのだと思う。
例えそれが、形としては相手の自由を奪い、痛みを与えるものであっても。
では、拘束されるだけでなく、痛みまで求める心理は何なのか。
私が求める痛みは拷問のようなものではなく、クリップやおしりへのスパンキングや縛られた時の痛みのような限定的な(これでもね笑 動画を見るともっとずっと痛そうなのはいくらでもあるからね)ものだ。
必然的に、彼らが私に与える痛みも、私が許す範囲の痛みに限定されて、
絶妙な加減を加えてくれることになる。
この、「痛み」というのは、痛いこと自体が単純に嬉しい気持ちに直結するものではない。
(痛いのが好きなら道で転んでも感じちゃうわけで笑)
痛いことをされている
=私の望む範囲をちょっと出たところの痛みをくれている
=ちゃんとわかってくれている
=その上で支配してくれている
=本人も楽しんでくれている
=嬉しい!
=気持ちいい!!
という変換が一瞬で脳内で行われているのだと思う。
だから、彼らが与えてくれる痛みだけは、気持ちいいと感じるのだ。
いつかダブルで来てくれたユウキさんに
一度だけ二人で会ったことがある。
その時にユウキさんには、
ダブルの時にカナメさんがやっていた
スパンキングやイラマチオなどを
同じような言葉をかけられながらやられた。
しょうがないよね、事前にあまりプレイについて会話していなかったし、
ユウキさんにしてみれば、カナメさんと私が織りなす最高の前例を見ているわけだから、あれが正解だって思ったのだと思う。
でもその「真似事」に接して私は、
快感どころか嫌悪感すら抱いてしまった。
その時はちょっと申し訳ない気持ちと、
これはなんなんだろう?という気持ちとでもやもやしていたけれど、
こうやって整理してみるとよくわかる。
つまり、ユウキさんとの間には安心感も信頼感も醸成されていないまま、
私が努力して絆を築いてきた最も信頼する最愛の二人が与えてくれてきたものを、いとも簡単に、まるで形だけ真似をすれば正解かのように「パクられた」のだ。
そういうものとして扱われたことを侮辱と捉え、それに対する拒絶反応が起きたのだと思う。
その後彼とは会っていない。
そうか、私は安心感を求めているのだ。
つまり、今の生活において、私が一番求めているのは
「安心感」なのだ。
そう思うと、それが渇いてしまっているこの今の生活が、なんだかすごく哀しくなった。
でも違うよね、昔から心の中では求めてきたものなのだから、
これは私の性質として求めているもの。
そしてそれが、彼らと出会うことで初めて形を成し、
言葉を得たのだということ。
そう思うことにした。
そして多分その通りだと思うんだ、多分ね。
カナメさんから、
「足も拘束したいから
何か探しとくね!」
って来た。
タツキくんからは、
「縄、そろったよ!
楽しみにしてて!」
って来た。
みんな私のために拘束具を買ってくれる笑
ありがとう2人とも!
早く私を動けなくして、安心感という名の幸せをちょうだいね。