祈りと奇跡、人の世の営み「結城友奈は勇者である-大満開の章-」感想
結城友奈は勇者である-大満開の章- 最高でした……!
防人編・西暦編でぐっと裾野の広がった世界、満を持しての大満開のカタルシス、エピローグで描かれるポスト神世紀の世界と復興事業の現実感。"あの"「ゆゆゆ」がこんなに綺麗な着地を見せるのかと大感動してしまいました。
久々にアニメ筋がワクワクしたので、以下、感想というか考察というか。
"あの"「ゆゆゆ」
早速で申し訳ないが、この感動を記すために、「『ゆゆゆ』って『まどマギ』フォロワー扱いだったよね」という記憶を確認しつつ、筆者の「戦闘美少女モノ」への考え方を示させていただきたい。
いや、全3クールもアニメが作られ、5年半のロングランを成し遂げたスマホアプリがコンシューマー化まで決定しているようなコンテンツに「まどマギと似てるよねw」などと言い出すのは失礼だと思うのだが、筆者は諸事情でアプリもプレイしておらず、アニメも「鷲尾須美の章」をリアルタイムで見たきりだったもので、未だに第一期放送時の記憶が強いのである。ご勘弁いただきたい。
また、つまり、これからの感想は「『勇者の章』と『大満開の章』を一気に見た人間の感想」でもあることもご了解いただきたい。
ちなみに、過去「勇者の章」を見ずに終えた理由は本題から外れるので省くが、今回今更見ようと思ったきっかけは筆者現行ジャンルの「アサルトリリィ」のアプリゲーム「アサルトリリィLast Bullet」とのコラボがきっかけである。「アサルトリリィ」も超面白いメディアミックスコンテンツなので、まずはアニメあたりから見て欲しい(宣伝(アマプラ)(dアニ))。アプリならブラウザ版がお手軽だぞ!
ともかく。
かの震災と共に強烈な印象を刻まれたオタクたちが、萌えアニメを装った鬱アニメのことごとくを、「まどマギ」と比較して語っていた時代であったと記憶している。
御多分に漏れず「ゆゆゆ」も「まどマギ」と比較して語られ、特にその「勇者パンチで全部終わらせて、主人公も無事に帰ってくる」エンドにかなりの賛否両論が巻き起こったのだ。
確かにご都合主義的といえばご都合主義的だが、「ゆゆゆ」は「なんでもいいから奇跡が起きて彼女たちが救われてほしい」とまで視聴者に思わせる追い込み方が非常に上手かったと思うし、「少女」をテーマにする以上、いじらしく全てを手に入れようとして成功する姿を描いて何が悪いのだ、とも思う。
いくらスジが通っていようとも、やたらクレバーな解を示したまどかと、永遠に戦い続ける運命を選択したほむら、という結末に終わったまどマギの方が「少女モノ」としてひねくれているというか、悪趣味ではないか、と筆者は思ったし、今でも思っている。
ちなみに筆者のキショすぎる少女信仰についてもっと知りたい方は以下の記事をご覧いただきたい。
その点、「ゆゆゆ」は「大満開の章」でも一期と同じ姿勢を貫いてくれた。世界の崩壊という巨大な現実を前に「私だけが犠牲になれば」という"次善策"ではなく、「友達を犠牲にして得られる世界なんて」といじらしく、勇気を持って戦いに挑み、「勇者パンチ」で勝利する勇者部の物語だった。
しかし「大満開の章」の素晴らしさは「見たかった物語が見れた」「ラーメン屋に来たらラーメンが出てきた」のような消極的な言葉で語れるものではない。
「大満開の章」は、少女たちの美しい祈りが起こした奇跡という鋭くも儚い希望と、人の世の営みとでも言うべき淡くも確かな希望を、同じ物語の中で連続するもの、同質のものとして語って見せることで、広く現実にも語りかける作品となっているのである。
横軸と縦軸に広がりを見せる「ゆゆゆ」世界
「ゆゆゆ」ワールドは、「大満開の章」にて語られる二つの物語によって一気に裾野が広がる(「いや俺は小説とかでアニメ化される前から知ってたが…」と言われそうだが……)。作品になぞらえるならば木の根の広がりとでも言おうか。同じ時間軸の横の広がりである「防人編」と、現代に繋がる過去を描いた縦の広がり、「西暦勇者編」だ。
「防人編」は、勇者には満たない適格者達が、誰にも知られず困難なプロジェクトに立ち向かう話である。ここで我々は、神世紀の世界が勇者システムという武力だけでなく、領土拡大を目指すプランB、もしくはメインプランのバックアップ態勢を整えていたことを知る(あるいは寿命を迎える神樹様の代わりとなる存在の確保なのか?ただ、この場合設定の真実は重要ではなく、いわゆる「裏方」が存在していたということが分かればよい)。
懸命に進めたプロジェクトが、お上のちゃぶ台がえしで頓挫して後始末までやらされることになる、という展開は、社会人オタクとしては身につまされるものがあった。
そして「西暦勇者編」では初代勇者、乃木若葉の挫折、無念と、未来へ託した思いが語られる。友奈達は、今戦っている自分たちもまた、誰かが命を賭して守った世界の上に生まれてきたのだと再認識するのである。
そしてこれら両方を通して描かれているのが、いわゆる一般市民、有象無象の人たちだ。かっこつきで「一般人」と呼びたい。防人としての適性がありながら恐怖ゆえに役目を降りる者、何一つ自分で決めることなく娘をないがしろにする郡千景の両親、初代勇者達の活躍次第でころころと手のひらを返す人々。
純粋な少女/残酷な運命(神樹・天の神)という二項対立を主に描かれてきた世界に、これら「一般人」が第三軸として立ち上ってくることで、世界はぐっと広がりを見せることになる。
そして今まで全く表情を見せることなく、ただ友奈たちを利用するだけに見えた大赦も、「鷲尾須美の章」で登場した安芸先生が大赦の構成員となることで、「非倫理的でも確実な"次善策"に飛びついてしまう情けない大人たち」という解釈すら許すようになる。今までの所業を鑑みてもう少し厳しく解釈するならば「神託に従っていればよい、と自らの判断と責任を放棄してしまった人たち」としてもいいだろう。どちらにせよ、黒幕や悪役なのではなく、彼らもまた「一般人」だったのだ。
そして物語は「勇者の章」の時系列へと追いつく。ここまで描かれてきた縦横の広がりが勇者部の物語に接続されることを象徴するかのように(まさに木の根が幹へと繋がっているように)、夏凜と芽吹が再会し、お互いの本音をぶつけ合うシーンが描かれる。勇者部が五人の中の繋がりだけでなく、それぞれめぐり合うまでにも様々な人と縁があったことを想像させるものだ。「勇者の章」にはなかったこの差分から、やはり「大満開の章」は勇者部/神々という閉じた物語から、広く人々の営みを描くために再構成されたものだと分かる。
現実と地続きのエピローグ
そして、「勇者パンチ」へと繋がる……のだが、それを解釈するためには、先に最高のエピローグの話をしなければならない。
外敵が去るのと同時に、人類を庇護していた神樹も消えて世界に混乱が訪れる。宗教は乱立し、陰謀論が錯綜し、物資は不足し、支配の実行組織は泥沼の勢力争いの様相を見せている。かつて神樹や勇者部の背中にいた「一般人」が、庇護を奪い去られ各々の脚で歩き出さなくてはいけなくなったのだ。
「防人編」「西暦勇者編」で縦横に世界観を広げ、「一般人」の存在も十分に語られてきたことで、この混乱の描写にに取って付けたような揶揄や風刺を感じることはない。壮絶な戦いを経ているにもかかわらず、新たな日常はあまりにもあっけらかんと始まる。
そんな中、友奈たちは乃木家の言い伝えを通して、勇者の役割を再確認する。平穏な生活の礎を守る者、あるいはそれが崩れたときに再興する者という役割である。それは風が「勇者部」を結成した時に、ある意味建前として用意していた活動内容でもあり、はじまりとおわりを繋げる構成があまりにも美しい。
そして友奈達は、開放された本土の調査へと乗り出す。セリフの端々から慢性的に不足している資源と、そう遠くはないタイムリミットがうかがえる。おそらくそのエネルギー事情の挽回のために島根原発を目指し、原野へ返ってしまった街を線量計片手に進む姿は、災害の記憶も新しい中、"震災アニメ"の「まどマギ」と比較して語られた作品のクライマックスとしてふさわしいものだろう。
再び走り出した友奈と東郷は確認し合う。人類の復興はこの一代ではならず、何百年、何千年と続くかもしれないということ。穴の空いた船から水をかき出し続けるような、地道で苦しい道のりを想像させるが、二人はそれを「些細なこと」と言ってのける。それは愛するあなたがいるから、とささやきあう美少女という構図は、百合アニメとして気恥ずかしいほどにまっすぐだ。
だが、二人の間の愛と同じほどに彼女らを支えているのは「私達は(勇者として)ずっと希望を繋いできたのだから」という自負でもある、ということに今は注目したい。
問い直される「勇者パンチ」
先人が血の滲む思いで支えてきた大地の上に立ち、再び未来へと託すために役目を果たす。
「大満開の章」のクライマックスで語られた「勇者とは何か」を、バーテックスだとか神樹だとか、固有名詞を省いて文字にするとこうなるだろう。
それはあまりに普遍的な(すこし理想主義的かもしれないが)人の世の営みだ。
ここから逆算して、大満開の「勇者パンチ」を見てみよう。
諦めにも似た犠牲による救済を良しとせず、いじらしく祈る少女たちに手を貸すように、歴代勇者の光が集まり、力となって天の神を粉砕する。いかにも「奇跡」らしい絵面だが、今我々は、この「勇者パンチ」が300年間連綿と繋がれてきた『勇者の活動』の一つの結節点にすぎないのだ、と解釈することができる。
先人の想いと犠牲を受け継ぎ、当事者の決意と勇気がなくては為し得ず、実を結んだとしても不断の努力で維持しなくてはいけないもの、とはもはや「奇跡」ではなく「日常」だ。
ここに「ゆゆゆ」は「日常系の皮を被った鬱アニメ」という、かつての流行りの類型を換骨堕胎し、鬱展開を打ち破る「奇跡」を「日常」へと接続し、希望とすることに成功したのである。
だからバーテックスから世界を救い終えた友奈たちは、特別な力がなくとも希望を持って、新しい世界へ、新しい日常へと飛び出していく。友奈達が新しい世界で始めた活動が、「勇者パンチ」のような大きな奇跡を起こすまで何百年かかるか分からないが、繋がれてきた希望がひときわ輝く瞬間をその目で見たから、友奈達は歩みを止めることをしないのである。
そしてそれはアニメ「ゆゆゆ」を見ている我々もきっと同じで、こんなにも明日を生きる勇気をくれた作品に、感謝を送りたい。日々の小さな困りごとにも心の中で「勇者パンチ!」と唱えて立ち向かい、たとえ思い通りにならなかったとしても、希望が実を結ぶ未来に思いを馳せて、日常を送ることができるだろう。
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