跳んでなんぼの人生っしょ

ファール。
ファール。
 
野球ではなく、走幅跳のお話。
走幅跳では白い板を踏切足が越えてしまうとファール判定になり、記録は無効になってしまう。跳躍のチャンスは三回だから、二回ファールしても最後の一回で良い記録が出せれば無問題。しかし、三回連続でファールすると記録無しで失格になる。かといって、足を合わせにいくと、助走が遅くなって記録が落ちる。つまり、今、結構絶望的な状況ってわけ。

僕の中学校には陸上部がなかったが、陸上大会には毎年出場していた。辺鄙な田舎の学校あるあるで、市内の陸上大会は毎年体育の授業日扱いになっている。野球部、卓球部、バスケ部にテニス部、猫も杓子も、オケラだってアメンボだって、市内の子ども達はみんな必ず出場したものだ。

数ある陸上競技の中で、僕が走幅跳に挑戦したのは中学二年の時だった。
「去年は短距離だったけれど、跳躍系の競技の方が向いてそうだから、今年は走幅跳で出てみない?」
と、先生に勧められたのがきっかけで、走幅跳にエントリーすることになった。

自らの足を使って跳ぶことの喜びを徐々に僕は感じていた。跳び上がって落ちていくまでの浮遊感はとても心地がよい。だから、喜んで自主練を重ねた。
 
初心者だから練習すればする程、記録の伸び幅も大きい。遂には、練習の自己ベストが本番そのまま出れば次の地区大会にも出場できるかもしれないというところまできた。そうすると、本番で良い記録を出したいという欲も湧いてくる。何より、せっかく年に一度の大会に出場して、三回ファールで失格だけは避けたかったから、本番までに運動場を何度も何度も駆け抜け、歩数や歩幅を調整した。

異変に気がついたのは、大会当日、本番直前の全体練習の時。なんと、歩数が合わないのだ。いつもなら跳躍するはずのところで、僕の足は踏切板より半歩分手前にあった。踏切板の手前でつんのめる。無理やりその場で足を合わせて跳んでみたが、板の反発、助走の速度、空中の体勢、全てを犠牲にしたジャンプでは、3m30cm程しか跳べなかった。

呆然として座り込む僕を見兼ねたのか、他校の体育の先生が僕の隣にしゃがみ込む。彼女は言った。
「足あってないね。練習では酷い記録だったけれど、君、足さえ合えば結構跳べそうだったよ。このままだとちょっと勿体ないね。」
「学校で練習してた時はこんなことなかったんですが。」
「あのね、タータンって分かる?ここの地面はゴムになってるの。土のグラウンドと違って、ゴムの反発があるし、スパイクもよく刺さるから、助走がいつもより速くなってる。だから、学校で練習しているのと同じスタート位置から走り出したら足が合わないのも当然だわ。」

なるほど。確かに陸上部のない学校で、タータンの上で走ることなど滅多にないから失念していたが、単に記録が伸びる短距離種目とは違って、走幅跳で助走スピードが変われば足が合わないというデメリットが生じる。理由は判明したが、助走のスピードを変える技術はなく、踏み切り位置のズレ幅も毎回変わっていたので、スタート位置の修正さえままならなかった。結局、そのまま本番を迎え、話は最初に戻る。

ファール。
ファール。

このままでは失格だ。

「ねぇ、君、馬鹿正直に最初から全力で走りすぎよ。最初の三歩はゆっくり大きく間合いをとるの。それくらいで多分足合うはずだから、次は決めなさい。」

さっきの先生がアドバイスをくれた。他校の先生で知らない人。でも、理に適っている。この人の言葉を信じようと腹を括り、最後の跳躍を迎えた。

トーン、トーン、トン、タッタッタッタ

もう足元を見るのはやめた。

タッタッタッ、ダン!
 
先生の言葉を信じて、踏切足に全体重を載せる。
目で見てはいないが、足に伝わる感触が踏切板の存在を僕に告げていた。
 
いける!という僕の心の声に、「いける!」先生の声援が重なる。
斜め45度の雲一つない青空に向かって、僕の身体が牡鹿のように跳ね上がった。
 
気持ちいい。
気持ちいい。
跳ぶって、最高だ。
 
心地よい浮遊感。
でもね、皆さん、着地するまでが走幅跳です。

とにかく後ろに砂跡を残さないようにすればいい。
踵から着地してそのままお尻を着きそうになるのを必至で堪える。両腕を伸ばし、爪先を上に向けて、バランスをとる。……耐え切った。

右の踵より後ろに砂跡を残さないようにして、倒れ込むと、ポンっと背中を叩かれた。

「おめでとう。最高だったわ。」
「先生のおかげですよ。ありがとうございます。こんなに跳べたの初めてで、最高に気持ちよかったです。」

記録は3m85cmで、ギリギリ地区大会に出場できることになった。僕は今では大人になり、現代人のご多分に漏れず運動不足の日々を過ごしている。あの斜め45度の青空は今でも一生の思い出だ。

地球の引力から離れられない大地の子らは、いずれは堕ちる運命なのだとしても、あの浮遊する快感の真実性が損なわれることは決してないだろう。

少し刹那的だが、人の人生が刹那的でなかったことなど一度もない。人皆死ぬ。これは真理だ。重力に逆らって跳び続けることはできない。でも、僕は跳び上がることに意義を感じることができる。いずれ死に行く我が身だけれど、生きることは無意味ではない。そんな無根拠なことを無根拠なままに信仰できるのはあの時の大跳躍のおかげだろうから、アドバイスをくれた先生にはとても感謝している。
 
拝啓、名前も知らないあの時の先生、お元気でしょうか?名前くらいお聞きすれば良かった。あなたは私の恩人です。あれ以来直接言えなくてごめんなさい。本当にありがとう。私は今日も生きております。

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