Prologue
Die Frage
幼少期に抱いた問いは、その人の人格形成に大きな影響を与える。それは、その後の人生すらも規定してしまうもの。あなたはこんな問いを抱きはしなかったか?図書館で借りてきた恐竜図鑑をめくりながらそれらが小惑星の衝突により絶滅したことを知ったときに。或いは庭で土弄りをして見つけた蚯蚓の血の色を気まぐれな残酷さと知的好奇心によって確かめたときに。
Warum ist überhaupt Seiendes und nicht vielmehr Nichts?
最も根源的な問いは存在についての問い。
なぜ無ではなく存在が有るのか。
あらゆる存在者の中でヒトだけが意識的に存在の問いを追いかける。問う者をハイデガーは現存在と呼んだが、現存在として存在について問うヒトは、自然界においては非常に脆弱な存在だ。例えばかつての地球の覇者たる恐竜と比してみれば、それらが食み、踏みつけたであろう葦のようなもの。仮にそのような巨体を持つにいたったとしても、ヒトの命は有限なのだから偉大とは言えまい。それ故に、人間は考える葦であるとパスカルは述べた。思考によってのみこそヒトは価値を持つのであり、それ以外の才能においてヒトは無価値であると思惟したからだ。汝はその悲惨さを知らねばならない。生の有限性を知ることで、ヒトは無限なものに意識を向ける理由を得る。限られた寿命を意識して目的を遂行せよという警告なのだ。彼らはどうして自ら好んで死の虜囚となったのか。一休宗純が元旦に髑髏を担いで歩き回ったというエピソードがある。生と死は不可分、否、「と」すら要らぬ。生死は渾然一体として不二であるのだから。即ち死の虜囚は生の虜囚。
あなた方は死を超克したのではない。生を諦観したはずもない。精神における不滅を追い求めたのだから。
死にゆく我々は問わねばならない?
クハハハハ。笑止!
あまりにも笑止。
問う必要なぞない。
欺瞞を語るな!
神も仏も世界も存在もそのような義務を与えてはおらぬ。汝が問うのは一重に汝の欲望によるもの。問いたいから問うのだろう?
倫理的でない命題を倫理的な命題にすり替えるのは詐欺師の手法だ。汝の欲望をヒト種全体の義務にすり替えているのだから。
*
「そう仰るのであれば私を呼ぶ必要はなかったのでありませぬか、閣下。そもそもなぜ私なのです。閣下が呼ぶべきマエストロはモスクワの彼でしょうに。」
暗闇の中でモノローグに口を挟むフランス語の響き。モノローグのドイツ語訛りとロシア語訛りが混じったような異質なフランス語が答える。
「この場にはこの場のルールというものがあるのだ。それは破ってはならぬ訳ではないが、逆らい難いある種の物理法則なのだから仕方がない。恨みたくば、この場に働くデペイズマンを恨むがよい。」
「こんなことは無意味だ。」
「ヒエロニムスよ。汝は正しい。意味はそこかしこにあり、発見されるものであるが、常に誰かにとっての意味である。肝心の誰かの居ない語りに意味はない。現状、この場は無観客のシネマのようなものだ。しかし無意味なシニフィアンの連鎖はアレを呼び起こす。アレの誕生はもう決まっていることで、単にそれが事実なのだ。だからアレの誕生以前にはアレの誕生そのものも意味をなさないというのに儀式は執り行われる。汝はこの場においてその整合性を担保する為のミュートスの一部に過ぎぬ。さぁ、はじめよ。はじめに言葉ありき!」
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