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虹をよく見た日
この日どこへ行っても虹🌈。通るところ、全て虹🌈。信号待ちで虹。季節的によく見かける。でも、それだけじゃないなー。
この日は、高校の時の担任の先生に会いにいってきた。卒業して37年。先日は同窓会も開催したので、そのお礼もかねて先生とお食事。ランチはうどん。店内に入る先生はすこしほっそりして。筋肉が落ちたんだと、話してくれた。頼んだメニューは、先生は普通のうどん定食。わたしは酢鶏の定食。わたしの方が量が多いじゃないか笑。あんなに背の高い大きな体だった先生が、わたしより小さな定食を頼むところで、ひとり笑った。先生のしゃべり方は変わってないのに、会話が変わった。私たちと過ごした3年間は楽しかったんだと、同窓会でもこの日も先生は言っていた。でも、先生、わたしは辛かったんだから。と話して、先生はまぁなぁ…。人として育つ、人間形成を育むはずの、剣道人生は、耐えることと、自分を隠すこと、自分らしくいないことの方を多く学んでしまった。あ、でもわたしは今でも剣道は好きで小さな子ども達と楽しんでいる。ここまでになるのに、相当な時間を費やしたんだから。先生に思いをぶちまけたんだけど。もうわたしの中ではそれについては、なんだか清算済なのも、わかった。高校の時の先生と、剣道でもなく、仕事でもなくこんな感じで会って、他愛も無いことをしゃべって。先日、講演会できてくださった、武田信子さんのお話くださった
「そこそこの幸せ」の意味をなんとなく味わう。どこかで聞いたのか、わたしが思ったのかも忘れたけど、私たちはいつも何か「特別」を求めているのかもしれない。「特別◯◯」特別なものでしか、喜びを感じる事しかできなくなってると、そこそこの毎日に少なからず不満や不足が起こる。きっと、若かりし頃はその傾向にあったと記憶する。記念日をこしらえたり、パーティをしたり、毎日がフェスティバル。笑笑。なんじゃそりゃ。それにしても、剣道人生が厳しかった分、そんな真反対の喜びでしか自分を助けてあげられなかったんだと思う。先生と話していて、高校生のわたしが思っていた事や大人になるにつれての変化をお話できた。所々、答え合わせをするように。間違いが悪いわけでもなく。先生も、色々生活も変わったんだって。孫ができたり、介護をしたり、最近の学生とまた関わる話。いつまでも聞いていたい。わたしも話したい。あぁ、感覚としては父親にこんな風に聞いてもらいたかったし、歳をとった父親とも話してみたかった。こんな風に。普通の会話、そこそこの会話が嬉しい。先生と握手しておわかれ。それぞれの仕事にもどる。
どんなコミュニティでも、誰かをすごい人にしたり、自分が特別でないといけなかったり(良くも悪くも)、大小のジャッジメントが苦しみを産む可能性が大きい。
高校生のわたしにとって、凄かった先生はわたしが作り出したものであり、今こうして話しをしている先生は、72歳のおじいちゃんでした。ただ、今でも尊敬しています。
その帰りの虹は「オールオッケー」