「死」について考えてみた
こないだ秋彼岸の期間中から彼岸明けまで、俺自身、色んな事がありました。
ウクライナのゼレンスキー大統領が、俺の方を見て笑いながら「○にな!」という夢を見て、
会社の帰り際に、電車の人身事故で足止めをくらい、
炎のような色をした、死者の魂を見て、
後日、頭に「○んでも、いいかな?」という言葉が降ってきて、
ある方のSNSで「どうかこの世を救ってください」というメッセージを見て、
彼岸が明けたと思ったら、酷い頭痛と、血管が詰まったような感覚や、寝ている時に半身が痺れて動かなくなったり。
単純に疲労が溜まっていたのか、波動の変化によるものなのかはわかりませんが、
間違いなく、体が何かを感じ取っているような、そんな気がしています。
最近、色んな方がSNSに書き込みしていますが、
大幅値上げにより、10月からは食料難が本格化するとも言われていますね。
正直、本格的に日本を食糧難が襲って、食料が手に入りづらい状況に陥ったら、
今の場所で農業をすることは愚か、食料の備蓄も安易にできない俺なんかは、真っ先に死ぬような気がする。
そうなると、実家の青森になんて、生きて帰るのは難しいだろうし、
それなら今の場所で、食いっぱぐれて死んでもいいように、せめて最期は、この環境で死を迎えたいと思える家にしよう。
それは「○にたい」という願望や希死念慮からではなく、
ニュートラルな思考から。
でも、そう考えたら、心がふっと軽くなったんですよね。
今までは
「意地でも生きてやる」とか
「○にたくない」とか
そう思って生きていると、ものすごく自分に、無理をして生きてきた気がする。
決して「○にたい」わけではないけど、
でも「○んでも、いいかな?」って、前向きに、そしてニュートラルに考えれた時、
すごく楽なんですよね。
「生きたい」ってことに関して、執着もなくなるから。
でも、もし生き続けられることができるのなら、
まだまだやりたいことはあるし、
この世界で、色んな人たちに寄り添い、助けていきたいという夢があるので、
○ぬまで、頑張って生きますけど、
これもある意味、悟りの境地なんだろうか?
とりあえず生きている間は、こうやって見てくれている方々に、色んなメッセージを届けられたら・・・
今の自分にできること。
そう思っています。