どうして「月がきれいですね」なのだろう
”I love you”の日本語訳を「月がきれいですね」とした夏目漱石の逸話は有名だけど、わたしはずっと「意味がわからない……」と思っていた。ところが、ある瞬間、わたしなりに すとん と納得してしまった。
どうしてこの言葉が「愛している」になるんだと思う?と友人に聞くと、「月はきれいだけど、あなたの方がきれいです、ってことかな」とか、「月は女性の象徴だから、相手を月に例えて、間接的に伝えているんじゃないかな」と答える人が多い。
他にもいろんな考え方があって、例えば「同じ月をみてきれいだと二人が思った=心を通わせた=寄り添う二人」という構図から、「愛してる」と表すことに繋がっているという解釈もあるらしい。
初めて知った時からずっとその意味が気になっていたから、わたしなりにたくさん考えたし、人と話したし、調べたりもした。でも、どれもしっくりこなかった。
そんなある時、わたしは、「月がきれいですね」を体験してしまった。
ある夜のこと —— あれはいつだったかしら。冬なのか、春なのか、覚えていないけれど —— わたしは大学近くで自転車を漕いでいた。友人の家から駅に向かっている途中だったような気がする。人の少ない夜道を一人、グイングインと自転車で進むのは、ほんの少し寂しかった。あの日の空気がわたしをそうさせた。ふと空を仰ぐと、やけに明るかった。そこには、満ちかけている月が浮かんでいた。ぼんやりと、でも力強く光る月を眺めながら、わたしは思った—— ああ、きれい……月がきれいだよって、あの子に言いたいなあ。
そのとき、一人でものすごく納得してしまった。漱石の本当の意図はわからないけれど、わたしは初めて「これなら、愛しているということを指しているのがわかる気がするわ」と思った。
あのとき思い浮かべた「あの子」は女の子で、十年以上付き合いのある親友だった。恋愛対象としては、(少なくとも今のところは)男の子が好きだけど、わたしは彼女のことを愛している。何がそうさせたのかはわからないけれど、社会的にみれば底辺の底辺を極めてしまうような彼女のことが本当に好き。どれくらいかというと、たとえ彼女がわたしを殺そうとナイフを突き出したとしても、嫌いになれないと思うほど。家族間によくみられる愛情と似ているのかもしれない。どんなに会わなくても、何が起こっても、わたしがどんな最低な人間になったとしても、見捨てられないだろうという、根拠のない自信がある。彼女が死んだら生きていけない、わたしも死ぬ、といった依存は一切ないけれど、どんなにグチャグチャのドロドロになったとしても、生きていてほしいなあと、思う。
二人とも空が好きで、中学生の頃はいつも空を見上げていたし、飛行船を見つければ手を振っていた。あの頃も今も、素敵な夕焼けや雲、青空なんかを見つけると、教えたくなる。それで、だいたい写真に撮って送りあう。そしてあの日、わたしはいつも通り、彼女に「きれいな月を見た」と言いたくなった。
そうして、気づいた。何か素敵なものを見つけたり、ものすごく美味しいものを食べたり、幸せなことがあったとき、特に意味はなく、大切な誰かに「伝えたい」と思うことがある。気持ちを共有したいとか、相手にもぜひ見てほしいとか、そういった気持ちさえない、ただただ伝えたい、そんな瞬間。
わたしの場合、伝えたくなる相手はいつだって、「愛している」人たち。
「ねえ、今日の月がすごくきれいだったの」——— そう伝えることは、その人のことを愛している証拠なのかもしれない。
きっと、人それぞれの「月がきれいですね」があるのだと思う。あくまでもこれは、わたしなりの愛の形。
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