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結局全部エゴなんだ

久しぶりに平日の昼過ぎという、人がたくさんいる時間帯に大学へ行った。授業に遅刻もしていなかったし、のんびりと駐輪場を抜けて校舎へと歩いていたら、ガッシャ―ンと音が聞こえたので、思わず振り返った。見ると、「自分の自転車を動かそうとした女学生が、周りの自転車を倒してしまった図」がそこに出来上がっていた。

わたしは踵を返して、彼女の方へ歩み寄り、倒れた自転車を一台起こした。

一瞬、「わたしが着くまでに自分でどうにかできちゃうかも」と躊躇しかけたが、それでも、誰かが手伝おうとしてくれたと気づくだけで、彼女も幾分かは気まずさが紛れるかもしれない―――と、思う間があったかなかったか、よく覚えていないけれど、こういったことに手を貸すのは、わたしにとってあまりに自然なことだった。

こんなことを言うと、さぞかしいい人間のように思えるかもしれない。が、わたしをこのようにさせているのは、「困っている人を助けたい」「放っておくのはかわいそう」「この親切はいつかどこかでわたしも受けたはずだから」とかそういう理由じゃない。

他の例を挙げると、寮の洗面所がありえないほど汚いときに、わたしは自分が汚していなかったとしても、もしくは、自分が使わなかったエリアだったとしても、ついつい綺麗にしてしまっていた。

それは掃除好き、綺麗好きだからとかではなくて、あるいは、次に使う人はきっとその方が気持ちがいいだろうとか、そういうことでもなくて。

単に、「そういう人間でありたいから」だった。

つまり、他者を想っての行為ではなくて、あくまで自分が、「困っている人がいても無視する」だとか、「汚いものを放置しておく」ような人間でありたくないという、本当に自分のことばかり考えた結果としての行為にすぎない。

なんだか一気にいやあーな人間に思えてきたかもしれないけれど。(笑)

少なくともわたしの世界の見方で言えば、人間結局みんなエゴだし、そのことを自覚した方が優しくなれるような気さえする。

例えば、人が汚したものを片づけているときに、「○○の代わりに」「○○のために」なんてわかりやすく思いやりをもって行ってしまうと、誰にも感謝されなかったり気づかれなかったりすると、なんとなくしょんぼりしてしまったり、場合によってはイライラしてしまったりするような気がする。意識せずとも、その行為の根底にはどうしても「してあげてる」という感覚が潜んでいて、それは外から「優しい人ね」と認定されている限り優しさであり続けるけれど、認められないと、おかしな憎しみや損した気分に変わってしまう。

逆に、どうせ全部エゴだから、と思えば、何をしようが「わたしがやりたいからしている」こととなり、そもそも他者の存在を前提とせず、何も言われないことがデフォルトになる。すると、ふいに誰かがそれに気づいて、感謝なんかされちゃったら、それは単なる「ものすごいラッキー」だし、すごく嬉しい。おまけみたいなもの。


全部エゴなんだ、結局さ。

なんていうと、一見寂しいように思えるかもしれないけれど、もしかしたら、そこからだってちゃんと「優しさ」みたいなものが生まれるんじゃないかなあと、わたしは思っている。

何かにとらわれて身動きが取れなくなるよりも、全部自分の責任だし、傷つくのも、行為の主体も、意志の決定者も自分だと開き直った方が、かえって色んなことができるようになるのかもしれない―――と、思う。


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