恩師へ
大学時代の恩師のことが急に思い出された。
こういう時、向こうも私のことを考えていて、突然メールがきたりするので驚くことがあるが、この恩師とはもう長い間連絡を取っていない。
いろいろあった。
私の過去は、すべて、本当にすべて、霧の中にあるという感じで、本当にもったいないことに、私はそのどこにも生きていなかった。この恩師とのなつかしい時間も、霧中である。
あと何年時間があるだろうと頻繁に考えるようになって、コンタクトがある人には最後のあいさつをすることがある。相手にはこの私の意図はわからないように。
彼にもあいさつをしたいのだが、どう調べても連絡先が出てこない。大学時代の友人に聞く手もあるだろうが、やめておく。あいさつをしたい、というのは聞こえがいいだけで、私の本心は「わかって欲しい」という幼稚なものであることを知っているから。
子どものいないこの恩師は、学生たちに慕われていた。教授会には友だちがいないといい、よく学生の部屋に来てはおしゃべりしていた。私は、この恩師がいるゼミに入った。その時は男性ばかりで、よくあのゼミに!と周りからはびっくりされたっけ。
すごいメンツ。歴代の男子寮寮長が何人もいたり、東大の研究誌に論文が乗った研究生がいたり、親類に有名なバイオリニストがいたり、特にこのゼミが有名だったのは毎週一回開かれるゼミの厳しさだった。持ち回りであるテーマについて調べ、文章を起こし、史料をつけて発表する。その前にゼミ会議というのがあって、そこでまず絞られる。3か月ほどかけて発表日となるのだが、その前1週間ほどは毎日徹夜で大学に泊まりこんだりもした。午後1時(だったか2時だったか)開始、5分の沈黙ののち、教授の「却下」ということば(だったか)で振出しに戻る。すべてやり直しなのだ。
大学図書館の書庫に潜って古い資料を見つけ出し読むのは好きだった。勉強が面白いと思ったのはあれが最初(で最後?)。楽しかった、というのが一言にまとめた感想。
私は生きていたのかもしれないが、その後4年次に精神を病む。冬、ゼミ会議で絞られて、心がしめつけられ、終わってからふらふらと外に出て、雪の中、細い一本の木にしがみついて30分ほどいたか。氷点下だったか。通りを歩いている人に見つけられて、数人に担ぎあげられて中に入った。みんな見ていた。その後、大学では、私に話しかける人はいなくなった。
かなりたって、その場所に戻ったら、その木が大きく成長していた。ああ、と思った。
先生、その節はお世話になりました。大学の宿直室で私のそばにいてくれて、夜はカツ丼を食べに連れて行ってくれました。就職して地方に行ったそのゼミの先輩だった彼氏に電話しろと言われて、電話したのを覚えています。
時が経って、近くの山に他の学生と3人で登りに行ったこともありましたね。私は本当にもったいないことをしたと思っています。人と人がふれあうということがどういうことかわからない私は、機械的に笑ったり話したり、歩いたりしていたのだろうと思うと。
言い訳になってしまいますが、私は子どもの頃、父や母に話しかけられたことがありません。ただの一度も。それが普通ではないということに気が付いた時はもう遅かったのです。私は、人が恐い人間になってしまっていました。深い人間不信。自分の心がわからない。こころが死んでいる。
もう少しで肉体も死んでしまうという今になって、すこし、すこしだけ、人と人がふれあうということがどういうことか、頭でわかってきた気がします。ただ、実際には、この人生では無理かもしれません。生まれて初めて会う人間の影響というのは恐ろしいものです。だから、もし生まれ変わったら…と、願わずにいられません。
先生、お世話になりました。まだ80歳で、恐らくお元気だと想像しています。私に、あれだけ、近づこうとしてくれた人は私の人生にはいなかったし、これからもいないだろうと思っています。大変感謝しております。本当に、心から感謝しております。
ありがとうございました。
人は、ひとりで生まれ、ひとりで死んでいく。犀の角のごとく。