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わたしはだれもおいていかない

これはすべて、私なのだ。

『ウーマン・トーキング』を映画館で見た時、腹が立った。イラ立つような気持ちがあった。こういうことじゃない。きれいごとじゃないんだ。

しかし、一年ほどたち、ふと、もう一度見てみようかな、と思った時に、これは、すべて私の中の話なのではないかと気づいた。

ねばりづよく道をさぐるのも私。
傷つけられ、動けなくなっているのも私。
じゃあ、この思いはどうなるのか、と、いきどおるのも私。
ゆるすのか、ゆるさないも私。
すべて、私。私なのだ。

記録を取り、サポートするのさえ、私。

なんてことだ。私は私を責めたり、私に腹を立てることはできない。

私は誰ひとり、置いていきたくない。
すべて私なのだ。
でも、説得もしたくない。だって実際に感じたことなのだ。無かったことにはならない。


           多数決。全私が何を望むのか。
傷を受け、うずくまりつづけることも、前だけ見ようとすることも、模索をつづけることも、すべて私の手の中にある。

選択権は、私にある。


誰が重要、重要じゃない、主役、ということもない。
全員、重要。