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ヨハネ福音書 13:4〜11

こうして、イエスがシモン・ペテロのところに来られると、ペテロはイエスに言った。「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。(…)決して私の足を洗わないでください。」イエスは答えられた。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」
ヨハネの福音書 13章6、8節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

驚きの光景

弟子たちは驚く光景を目にしました。それは、最後の晩餐の食卓で、イエスが立ち上がって上着を脱ぎ、手拭いを腰にして、弟子たちの足を洗い始めたのです。

当時、サンダルで埃まみれになった足を洗うのは、客人へのもてなしで、しもべの仕事でした。主イエスは、しもべの姿になって、弟子たちの足を洗い始めたのです。弟子たちは不意を突かれました。

プライドを保つために

いよいよ、順番がまわってきたペテロの足を、イエスが洗おうとしました。イエスがしもべの役をしていることを心苦しく思ったペテロは、「主よ、決してわたしの足を洗わないでください」と断りました。するとイエスは「もしわたしがあなたを洗わないのなら、あなたとわたしは関係がなくなってしまう」と言ったのです。

それは大変だ、とペテロは「では主よ、足だけでなく、手や頭も」と全身を洗ってもらおうとしました。足だけを洗ってもらっていた他の弟子たちより、一歩も二歩もリードして一番弟子としてのプライドを保ちたかったのでしょう。

あなたは全身浴したか

そのペテロに、イエスは言いました「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたがたはきよいのです」。

イエスを信じるあなたは、罪が赦されました。永遠の命を得て、もはや裁かれることはありません。つまり、イエスを信じた時からあなたは、「全身を水浴した者」で、聖霊によって新しくされて、全身が清くされたのです。

日々、汚れる足はどうする

しかし、罪にまみれたこの世での信仰生活で、私たちの足は自然に汚れていきます。日曜日に礼拝を捧げて、それぞれの場所へ主によって派遣されて、最善の注意を払ってそろりそろりと歩いても、埃まみれ泥まみれになります。

なぜなら、救われた後も肉体がある限り「罪を犯す性質」は残るからです。魂はすでに救いを得ても、体はまだ贖われていません。

しかし、たとえ罪を犯しても、その都度悔い改めれば赦されます(第一ヨハネ1・9)。この日々の悔い改めへの赦しが、イエスがあなたの足を洗うという行為なのです。

一度、救われたなら、その救いは決して取り消されることはありません。ですから、「すでに全身が清いのだから、洗うのは足だけで十分」と、イエスは教えたのです。

イエスとあなたとの接点とは

今、イエスは、あなたの前でひざをかがめています。上着を脱いで、しもべの姿になって、あなたの足を洗おうとされています。イエスは言われます。「わたしが洗わなければ、あなたとわたしは関係ないことになります」。

あなたはどうですか。イエスに毎日足を洗ってもらうことに尻込みしてはいないでしょうか。大きなドラマティックな悔い改めがある時、年に数回ぐらいのペースでいい。忙しいイエスの手を煩わせたくない、と気をつかっていませんか。大丈夫です。主イエスは、毎日、いや一日中、あなたと会いたいと願っている方です。

イエスは、あなたの罪のために、十字架で死に、愛を示されました。そこがあなたとイエスとの「接点」です。もし「自分には罪がない」と言ってしまうならば、イエスはあなたには全く関係のない存在になってしまいます(第一ヨハネ1・8)。

悔い改め、赦され、清め続けられる。これがまことのぶどうの木である主イエスに繋がり続けることであり、豊かに身を結ぶ方法です。さあ、イエスに足を洗っていただきましょう。

「イエスさま、今日もわたしの足を洗ってください」。


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