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マタイ福音書 23:13〜22

わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々の前で天の御国を閉ざしている。おまえたち自身も入らず、入ろうとしている人々も入らせない。
マタイの福音書 23章13節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

悔い改めなさい

「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(マタイ3・2)。イエスは、そう告げて、公生涯を始められました。イエスが天から降って地上に来られたのは、神の国の到来を告げ知らせるためです。そして、イエスを救い主と信じるすべての人に、天の御国の門が開かれるためでした。

「偽善者たち」。イエスは律法学者やパリサイ人をそう呼びました。偽善者の語源は「仮面をかぶった舞台役者」という意味があります。つまり、彼らは信仰深い人を演じているだけで、中身は空っぽだとイエスは言っているのです。

彼らの本来の役割は、民衆が救い主を信じるように導くことです。しかし、あろうことに、彼らは救い主イエスを拒否するだけでなく、民衆も信じないように扇動しました。彼らは自ら御国の扉を閉ざし、他の人々も御国に入れないように妨害したのです(23・13)。

この世には、様々な種類の罪がありますが、大勢を地獄に巻き添えにする「天の御国の扉を閉じる」罪ほど恐ろしいものはありません。悪魔を大いに喜ばせたことでしょう。

御国の扉を閉じる方法

では、その指導者たちは、どのようにして御国の扉を閉じたのでしょうか。それは、「人間の伝統」と「人間の宗教ルール」です。彼らは、人々にそれを守り行うように強制し、守れない人々を厳しく非難しました。人々には抱えきれない重荷を背負わせて、自分たち守ったふりをして抜け道を作っていたのです。

伝統やルール自体は悪いものではないですが、それらが神の戒めよりも権威を持ってしまえば偶像になります。同じことが世界中の教会でも起こっています。

例えば、ある教会でこのようなおかしな声を聞いたことがあります。「私たちの教会はバプテストだから」「それをするのはバプテストだから」「これをしてはバプテストじゃない」。残念なことに、これらの考え方の基準はバプテスト主義という名の偶像です。教会はイエス・キリストだけが「主であり義であり」、絶対基準です。

多くの教会はその歴史や伝統を重んじるあまり、聖書の教えが後回しにされています。教会独自のルールが聖書以上に権威を持ってしまい、人々の信仰を骨抜きにします。ヒューマニズムを重んじるあまりの、聖書の教えに対する妥協は、キリストの教会を破壊します。そこにも悪魔は働いているのです。

ある教会では入り口に「ここはあなたの教会です」と貼ってあったそうです。そうすると自分の夢の自己実現のためや、個人的利益のために教会を利用するものが入ってくる危険性があります。悪霊も付いてきます。教会はあなたのものではありません。教会はイエス・キリストのものです。

聖書とまったく関係ない教派主義、伝統、ルール、ヒューマニズム、それらすべては御国の扉を閉ざす悪です。主イエスが不在の信仰生活は、律法学者やパリサイ人と同様、偽善です。それらをイエスはこう指摘します。「わざわいだ」と。

英語で”Enough is enough “という言葉があります。「もう我慢の限界だ」という意味ですが、神の忍耐にもタイムリミットがあり、もうすぐ「終わりの日」がやってきます。教会を殺して御国の扉を閉ざす者たちは、悔い改めない限り悪魔と共にゲヘナの火に投げ込まれます。もしそのような人がいるのなら、それはキリスト教信者を演じているだけで、最初から救われていないからです。

仮面を脱ぎ捨て、演じるのを止めるのです。悔い改めて、主の血を飲み、イエス・キリストの衣を着なさい。人生の王座をキリストに明け渡しなさい。教会の頭はキリストであると宣言しなさい。キリストにだけ従うのです。そうすれば閉ざされていた御国の門は、今、大きく開かれます。

「イエス様、あなただけに従います。閉ざされていた御国の門を開いてください」。

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