ヨハネ福音書 13:30〜33
よく口にする言葉、「栄光」とは
「今、人の子は栄光を受けます」(13・30)。そのようにイエスは過越の食事の席で、自身に「十字架の時が来た」ことを弟子たちへ告げました。私たちは、信仰生活での人や神との会話の中でよく「栄光」という言葉を口にします。あなたがイメージする神の「栄光」とは何でしょうか。
聖書によれば「栄光」とは、神のご性質の現れのことです。神の聖さや永遠性、そして美しさが現れることを栄光といいます。イスラエルの民が知る「栄光」とは、神だけが天から現すものであり、それは山の頂を焼き尽くす炎であり(出エ24・17)、天幕に満ちた栄光は、モーセですら入れないほどの聖さでした(出エ40・35)。とにかくそれは、人間のものではなく神からのものです。
あなたが絶対について行けないところ
そのとき食卓にいた弟子たちは、非常に驚いたことでしょう。なぜなら、イエスが、その「栄光を、いま受ける」と言われたからです。では、いったいどのようにして、イエスは栄光を受けるのでしょうか。その方法について、こうイエスは言っています。「わたしは、あなた達がついて来れないところへ行きます」(13・33、36)。
あなたが絶対について行けない、イエスが行かれた場所、それは、あなたの代わりにイエスが行かれた場所です。そこはイエスが、逮捕された連れて行かれたローマ総督の官邸。40回近い鞭打ちを受けた刑場。十字架を背負い歩いたドロローサ(悲しみ)の道。呪いの木と呼ばれる処刑の道具、十字架の上。暗い墓の中。神不在の陰府(よみ)という絶望の淵。雲に包まれ昇った第三の天。イエスが座られた天の御座。
何という苦難、何という栄光
天の御座に座る主イエスが受けた栄光とは、何と素晴らしいものでしょうか。主イエスは、「自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方(イエス)を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。(…)すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです」(ピリピ2・8~11)。
このようにイエスは、それらの苦難の行程をすべて通り抜けた向こう側で、輝かしい栄光を受け取りました。イエスは最初から最後まで、「栄光」だけを一心に見つめていたのです。それが、十字架をくぐり抜ける突破力となりました。
だから、イエスは「栄光」という言葉を五回も繰り返してます。「今、人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになりました。神が、人の子によって栄光をお受けになったのなら、神も、ご自分で人の子に栄光を与えてくださいます。しかも、すぐ(栄光を)与えてくださいます」(ルカ13:31〜32)。
計り知れない栄光
また、聖書はこう言っています。「私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです」(第二コリント4・17)。イエスが通った十字架の極限の苦しみを、いったい誰が「いっときの軽い苦難」と呼べるでしょうか。しかしそれは、後に受ける栄光が、比べものにならないぐらいに大きく重いことを現しているのです。
あなたは今、主にあってどのような苦しみや試練を通っていますか。目の前の課題や問題にばかり目を止める時、恐れや不安で力を失い、暗闇で前進できなくなってしまうでしょう。しかし、今、目を上げて、その向こう側を見渡しなさい。栄光に輝く永遠の主が、そこにおられます。あなたを通して現される主の栄光は、すべての暗闇を完全に消し去る力なのです。
「イエス様、苦難の向こう側にある、栄光から目を離すことがないように、わたしの眼差しをまっすぐにしてください」。