東大入試をくじ引きに
思考実験。あらゆる大学入試をくじ引きにしよう。その手始めに東大をはじめとする国立大入試をくじ引きにしよう。小学生から受験ゲームに投下される膨大な時間と労力(そのほとんどは後述するように無駄だ)をチャラにして、そのリソースを子供達の成長と日本の発展のために振り向けることができるだろう。
制度
マイケル・サンデルが『実力も運のうち』で同様のアイディアを述べている(ハーバードをくじ引きに)。ノートにすでに同様のタイトルでアイディアを披露しておられる方もいる。本稿で考えてみたいのは、それらより徹底的なくじ引き制度だ。たとえばサンデル案は基礎学力でまず数万人に絞った上で、くじ引きにするというもの。私は、大検資格(高校卒業認定)があれば誰でもくじ引きに参加すればよいと思う。
誰でも入ることができるが、入った後で個々の授業で単位を取るハードルは上がる。適当なレポートを書いて単位をもらえることはなくなる。海外の大学で例があるように、面接試験で成績をつけるのも良い。大学入試と違って、個別の授業ではきめ細かく学問的能力をはかることができる。これらの各授業で単位を取れないなら退学することになる。東大に入学するのは運次第だが、卒業までに「さすが東大」と言われる立派な人材となっていなければ、卒業することはできないというわけだ。卒業する自信がない高校生は出願しなくなるだろう。
出願時には、なんなら第10希望くらいまで出せることにしよう。第1希望で定員を超えた大学では、第2希望以下の出願は無視して抽選をする。第1希望が定員割れで、第2希望で定員を超える場合は、第1希望は抽選せずに確定。残った枠を第2希望で抽選する(以下同様)。入学時点では、いきなり学部に所属するのではなく教養課程に入ってから進学振り分けで希望する学部学科に進む。東大のやり方に近いが、文一と法学部が紐付くのではなく、大きく「文科」「理科」に分ける。おそらく医学部に希望が集中するが、1、2年のときに各授業でしっかり高評価を得ることでしか医学部には行けない。受験天才ではなく、少人数ゼミ形式の授業を含む多くの授業で総合的に高く評価された学生が医学部に行くことになる。
くじ引き入試が私学にまで一般化すれば(これは難しいだろうけど)、「良い大学」も多様化するだろう。今は、学生が入学する際の難易度がそのまま大学評価と一致している。早稲田と慶應の卒業生が優秀なのは、教授が一生懸命学生を教えているからではない。入学時に地頭が良い学生が入ってきているからだ。だが、くじ引きで入ってきた学生をほっておいて卒業させたら、単にその大学の評判を落とす。教育内容が高度で教員の研究成果も高い大学、あるいは卒業時に優れた人材を送り出しながら退学率が低い(面倒見がよい)大学などが、良い大学として評価されるようになるはずだ。
条件
この制度は、退学者が出ることを織り込んでいる。このような制度がうまくいくには、いくつかの条件がある。
多くの学生が退学したとしても、大学経営が成り立つ財政的基盤が必要である。国立大学の場合はもともと学納金収入の割合が低いので、2割の退学者に耐えることは可能だろう。
大量退学者が出ないように、多数のオンデマンド公開講義と期末模擬試験で、「自分は入学後についていけそうか」を出願前に判断できるようにする必要がある。
大量退学者が出ないように、「高卒者であればついていける基礎レベル授業をまず履修し、次の発展的授業を履修する」というカリキュラム構造を整備する必要がある。つまり、あらゆる専門科目が、第2外国語の授業のような段階性を備える必要がある(実はこれはあらゆる大学で「科目ナンバリング」として今でも実現しているはずなのだが、実質化されていない)
大量退学者が出ないように、チューター学生がついていけない学生をサポートする制度を充実させる必要がある。
個々の授業の単位取得のための難易度設定の適切さは、評価にさらされる必要がある。「できない学生は退学」が当然の体制では、意地悪な教員が大半の受講者を不合格にすることもあり得る。しかし、そうした期末試験は評価委員会が実際に解いてみて、不適切だと評価されたらなんらかの救済や勧告がなされるべきである。
効用
中学受験をしないと東大には行けないという時代が終わる。サンデルなどが説くように、「金持ちの子供が良い教育を受けて金持ちになる」という格差の再生産を断ち切る。
学生に多様性をもたらす。
入試業務がなくなり、大学教員はより教育と研究にリソースを割くことができる。
学生が入試で目標達成して燃え尽きることなく、大学で勉強するようになる。
ここからが本当に大事なところ。高校までの教育を変える。
大学入試の筆記試験は、実際に大学以降に求められる知とは別種のゲーム攻略的な知を要求せざるを得ない。つまり膨大な解法の記憶である。で、かれらが10歳から18歳までの素晴らしく良く機能する脳に詰め込んだ100GBくらいの情報(知らんけど)のうち、99GBくらいは、東大に入るため、あるいは東大に入るための良い高校や中学に入るために使われて、しばらくしたら忘れられる。なぜなら大学以降には使わないから。
東大入試の数学で高得点を取ることができるほどの数学的才能をもった子供(たぶん同年代に1万人くらいいる)は、1000時間も勉強すれば、大学における数学の基礎授業を受講できる程度にはなるだろう。ブリリアントな解法を要する難問に時間をかけるのではなく、解析や幾何や統計の基礎概念と、その仕組みの面白さを理解するための良問を解くことに集中すれば。
ところがかれらは、中学受験のへんてこな問題だとか、大学入試のためのパズルのような問題とかを物凄いスピードで解けるようになるために、1万時間を費やす。
1万時間から、大学の数学(やその他の理系の授業)の基礎講義を受講できるようになるために必要な1000時間を差し引いたら9000時間。10歳から18歳までの貴重な9000時間を、スポーツや文化活動や社会活動や仲間との遊びに使いましょうというようなことを言いたいわけではない(そうしてもいいけど)。9000時間のうち1000時間でも、2000時間でも、大学以降に求められる数学や数学を応用したサイエンスの探求に使ったらどうか。
同様のことがほかの科目に言える。英語や古文の勉強の多くを占める単語集と文法問題集のための時間を、大学入学後の授業で求められる能力の開発に使ったらいい。英文学をやりたいなら英語の小説を読み英語字幕で映画を見たらよいし、日本文化を学びたいなら能の稽古でもしたらどうか。歴史の用語集を暗記するくらいなら、歴史小説を楽しみ、歴史学者の一般向けの本を読み、地域の史料館のセミナーに出てご老人たちと一緒に古文書を読んでみよう。あるいは法学や経済学の入門書を読む。優秀な高校生は、放課後の勉強時間を受験ゲームの解法暗記に使う代わりに、そうやって大学での学問をどんどん先取りして学ぶのに使えばいい。
要するに、「入試は抽選、入学後サボると退学」という大学教育によって、高校時代(あるいはそれ以前)に求められる教育のありようが変わる。これが決定的に重要だ。現在、高校における教科教育は死んでいる。受験の手段に成り果てている。高校生にやらせている高度な解法の暗記が不要となったときに、高校における本当の英数国理社の授業が始まる。
高校の勉強のリバイバル
多少逆説的だが、大学での勉強の(つまり学問の)準備になろうとするときに、高校の授業はそれ自体として生き生きとしたものになるだろう。準備と言っても、「現在のような国立大学入試を突破できるレベル」ではなく、あくまでも「大学の基礎授業を受講できるレベル」が目標である。そのような教育においては、解法の暗記は最低限でよい。どんな科目でも求められるのは、興味をもつことと、問いに対して知識を探して使うことができるようになることだ。
古文を例に取ろう。大学で国文学の授業を取ったとき、入試の際のように手ぶらで謎解きをするように古文を読まされることなどない。研究者になって古文を読むときにもない。調べながら読めるレベルになっていればよい。既存の注釈書、辞書、先行研究、ネットのデータベースを頼りにしながら、読めればよい。実際私は大学で、古文を一度も学んでいない帰国生や留学生に古文を読ませているが、指導すればなんとかなる。
英語だって難しい文章なら辞書を使いながら読めればよい。それでもわからない難解な文法や構文については、それこそ授業で教えればいい。生物だって、「原核細胞と真核細胞の違いは?」という問いに対して教科書の当該箇所をみつけて「核をもつかもたないか」と答えられればよいし、ついでにそのときに教科書に書いてあった小話を面白がることができて、その夜に自分の親に対して「ねえねえ、原核生物って知ってる?まあ細菌なんだけどさ。すっごい小さいんだけど、なんか地球上の総量だと、普通の真核生物の何十倍もいるらしいよ。きもくない?」みたいな話ができれば一番よい。
一般的に言って、大学以降の学問では、受験の筆記試験のように手ぶらで文章やデータや問題を読んで理解する能力は必要はない。目の前の課題に対して、やり方を調べて使ってみる能力がむしろ重要である。喩えて言うなら、レシピを見ながら料理ができればよいのであって、レシピを憶える必要はない。また、自転車にいきなり乗れる必要はなく、補助輪付きで乗れればよい。何度も繰り返すうちに、自ずとスピードがついてレシピも補助輪も不要になる。学問だけでなくビジネスの現場でもそうだろう。だから高校の授業では、「興味をもって調べて使う能力」を、教科外の自由研究などではなく、教科教育においてこそ学ぶべきだ。
実のところ、「手ぶらで問題が解ける(レシピを見ずに料理できる)」ほどの能力という点では、高校教育の達成目標は「中学レベルをちゃんとできる」だと思う。公立高校入試で8割取れるくらい。それだけの知性があれば、世界中どこに行っても恥ずかしくない立派な教養人である。ためしにFラン大学の実態を難詰して教育改革を叫ぶ財界人や政治家を捕まえて、公立高校入試で8割が取れるかやらせてみるといい。かれらだけでなく、大学教員を含む「社会人」のほとんどが無理だろう。日本の中学の教科書に書かれていることは、けっこうハイレベルだ。
で、多くの高校生は(大学進学する者すら)中学レベルの勉強ができない。1次関数すらよくわからないのに、高校数学や高校理科をやらされて、理解もできないまま中間期末テストで無理矢理詰め込んで、すぐ忘れて、そのプロセスを通じて国立大学や理系の選択肢を放棄して、高2以降は数学をまったく勉強しない。
一方でこんな高校数学の風景を想像してみよう。高校の1学期のほとんどは、中学数学の丁寧なやり直しで、基本問題を何度もやってみる。中間テストも期末テストも、基本レベルばかり。そもそもくじで大学に行けるから成績に差をつける必要がないのだ。関連する数学史の楽しい講義もある(数学ドキュメンタリーを見たり)。こんなペースで、ゆっくり丁寧に3年間かけて、何度も中学レベルまで戻ってやり直して、私立文系志望者も就職希望者も、全員が中学から数学Iまでのレベルをマスターすることを目指す。実は、このレベルが、公務員試験やSPIで求められる数学力である。全ての高校生がそのレベルの数学力をもって卒業する国は、凄い国ではないだろうか。
大学で理系や経済学部等を目指す高校生は、この基礎クラスではグループワークの教え役になってもらい、別クラスで大学入学後に備えた数学II以降の勉強をすればよい。これは他教科も同様である。
上記のような学びは、頓挫した「ゆとり教育」で目指されていたことである。また、東大などが推薦入試で取ろうとしているのも、受験秀才ではない、上述のようなのびのびと深い勉強をした学生である。しかし、そうした「のびのびした」高校教育は、選抜式の大学受験がある限りは、機能しない。難関大学を目指す高校生は高校のゆとりのある授業を時間の無駄だと感じる。推薦入試で評価されることを前提にした「のびのびした」教育は、金持ちの子供が高額な塾で学んだ英語力を生かして海外の環境問題ワークショップに参加して推薦で東大に入りました、みたいな体験格差の再生産になりがちである。実際、私大の自由選抜入試では、専門の塾がノウハウを教えるようになって、そうした塾に行ける高校生が立派な資料を提出して面接対策もして臨んで合格する現状がある。結局、くじ引き以外のどんな選抜方式でも、高校時代までの学びを「選抜に向けたもの」にしてしまい、攻略ノウハウのあるゲームとなり、経済力がものを言うようになる。だから高校時代までの学びを、「学問に向けたもの」に変えなければならない。
このやり方は選抜を大学入学後に先送りしただけではないか、という反論があるかもしれない。実はその通りだ。ただ、大学入学後の選抜(授業で良い評価を取る)に伴う勉強は、先述した「無駄な9000時間」ではない。学問行為そのものである。そして、高校生までの9000時間は、入試ゲーム攻略に使われるのではなく、入学後の選抜(退学しないための、希望学科に行けるための)に備えて使われる。理系の高校生は、高等数学の本を読むだけでなく、大学一般教養で哲学が必須なら、それらの本も読むかもしれない。英語のオーラル授業のために英会話を勉強するかもしれない。受験ゲーム攻略に費やされている高校生(高校受験の中学生、中学受験の小学生)のエネルギーは、より視野の広い医療、ノーベル賞級の研究、ビジネスのイノベーションの萌芽となる学びへと注がれることになるだろう。
実はもう一つの可能性を考えている。高校生も中学生も、もっと恋愛をするだろう。天才でなくても、恋をしながら東大に行ける。くじ引きだから。なんなら子供を産んで保育園に通えるようになってからでも東大に行ける。くじ引きだから。入学前に産むかはともかく、若い頃から性愛的コミュ力を培った世代は、より早く結婚し、より早く第一子を産むのではないか。
さて、私たちの社会は、こんな閉塞状況にある。もっとも知的ポテンシャルの高い子供達に膨大な無駄な学習をさせて、ノーベル賞を獲ったりビジネスのイノベーションを起こしたりする可能性を摘み、中学受験世界とそれ以外の世界の分断を拡大し、上の階級は晩婚で、下の階級は貧乏で子供が減って国力は減退していく。
もとより社会は複雑に絡み合っていて、どこかを変えただけで全てが解決するなんてことはあり得ない。しかし、もし社会のなかに北斗神拳の秘孔のような1点が存在するとしたら、受験ではないか。そこにくじ引きという一撃をくらわせることで、上記の閉塞を打ち破り、社会が活力を取り戻す道筋があるかもしれない。本稿はそういう思考実験である。
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