絵に描いた「もちろん」
【文字数:約2,400文字】
広辞苑で「絵に描いた餅」を調べると、次のように説明されている。
役に立たない物事。計画だけは立派だが実行がともなわないこと。
ネガティブな意味合いとして「机上の空論」とも通じており、四字熟語だと「大言壮語」が近いだろうか。
それはともかく、最近この「絵に描いた餅」をポジティブに捉えるようになった。
当然のことながら絵に描かれた餅は食べられず、そんなことをするくらいなら働いて得た金で、ちゃんと食べられる餅を手に入れろと、そう言いたいのだろう。
もしくは夢物語みたいなものでなく、実力などに見合う地に足の着いた計画を立てろと、この慣用句は伝えてくるような。
一方で、美術館に収蔵された作品を鑑賞することは、絵に描いた餅を眺めるのと何が違うのだろう。
多くの人が歴史的な価値を認めたり、素晴らしく高度な技法によって作られていたとしても、それらを食べることはできない。いくら鑑賞したところで腹は減り喉は乾くので、時間と労力のムダではないか。
去年あたりから歴史的な名画にトマトソースなどをかける、過激な活動家たちのニュースを見聞きする。
食べ物を粗末にしているし、彼らなりの訴えがあるとはいえ、行動だけで見るなら神社仏閣に落書きをする人間と大差がない。
ただ、少し引いて眺めてみると「名画」とはいえ、物質としてのカンバスに油絵具を塗りつけたものだ。悪い言い方をするなら「絵」は色の集合体でしかない。
つまり彼らの行動こそが、作品に絵としての価値があると、自ら証明していることになる。
マンガ家でエッセイストのカレー沢薫さんは、アプリゲームのキャラを「jpg」と表現しており、それらの収集がお好きらしい。
私が基本的にスマートフォンでゲームをやらないのは、いくら課金したところで得られるのはjpgだと、冒頭の「絵に描いた餅」の気分になるからだ。
もちろんゲームの絵はイラストレイターなどの方々が生み出した、芸術および美術品だとは思う。なにより付随する「ストーリー」にプレイヤーは涙したりするわけで。
ゲームをやらない私は本を読む。そこに含まれているのもストーリーだ。
あるいはドキュメンタリーや教養番組、自然特集にアニメなどを観る。それらにも同じくストーリーが含まれる。
いくらストーリーを吸収したところで腹は減り喉は乾く。絵のように食べられないのだから、やっぱりムダなことをしているのだろうか。
ムダな美術品といえば、去年に行った神奈川県の近代美術館にあった次の作品が思い出される。
和楽器の箏みたいな見た目だけど、たぶん曲を演奏できるよう意図しているわけではなく、ハーマン・メルヴィル『白鯨』から得たイメージを具現化しているらしい。
はっきり言って意味が分からないし、「なんだこの粗大ごみは?」と思った。
それでも作者が意味あるものとして作り、それを多くの人も認めたから「美術品」と呼ばれるわけで。よくて子供の作った「さいきょうの〇〇」としか思えないのに。
これら機能がありそうでないムダの集合体が、けっこう私は気に入って長い時間に渡り眺めていた。その時間もまたムダだったかと聞かれたら、「私なりの意味があった」と答える。
話を冒頭の「絵に描いた餅」に戻そう。
もちろん描かれた餅を鑑賞しても腹は膨れないし、むしろ餅がないことが意識され、余計に腹が減るかもしれない。
ただし、描かれた餅にも3点の長所がある。
その1つが「いくら眺めても減らない」ことだ。
餅は食べればなくなってしまうので、新しい餅を求めて働くなりしなければいけない。それは人が労働をする理由の多くを占めているし、なにも食べないで生きることはできない。
たしかに描かれた餅を眺めても腹は膨れない。ただ、腹が膨れた記憶を呼び出すことは可能だ。
それが2つ目の長所で、「過去にアクセスできる」とするのが近いかもしれない。
あのときに食べた餅は美味しかったな、という記憶の呼び水になり、同じ絵を見る人がいれば「そうそう、美味しかったな」などと話ができる。これは様々なものに付属するストーリーと言い換えてもいい。
3つ目が「視覚的に理解しやすい」ことだろうか。
絵に描いた餅を文章で表現するなら、だいたい次のようなものになる。
たわわに実った糯米の稲穂から、白米と似た粒が取れる。それら蒸して叩き、粘り気のある塊としたものが餅である。出来立ての甘い香りのする湯気を感じられるよう、鉛筆や絵筆により丹念にそれを写し取った。
文章を構成する単語が何を意味しているか分からないと、上記の文章でイメージすることは難しい。
ところが絵ならば理解は一瞬で済む。人が文字より絵を先に描いたのも、それが理由だとするなら納得だ。
思いつくまま挙げた3点の他にもありそうだけど、おおよそ絵に描いた餅が持つ長所を示せたかもしれない。
しつこく書いている通り、描いた餅は食べられない。
それでも人が思考する存在である限り、絵の餅には価値がある。絵の餅を「美術品」や「ストーリー」に置き換えてもいい。
別に多くの人が価値を認めなくても、自分だけが認めればいいと思うし、子供のときに描いた絵はそういうものだった。
もちろん多くの人に評価されるのは素晴らしい。金にならない芸術に人生その他を浪費したとして、誰も救ってくれず嗤い者になるだけだ。
しかし、ムダなものを生み出して楽しむのが人間だとも思う。
極論を書くなら「どうせ死ぬ子供を育てて何になるの?」という疑問が出る。もちろん種の存続という命題があるにせよ、自分自身が永続するわけではない。
ムダであってムダでない、矛盾したものを愛するのが人間なのかもしれない。
もちろんそれはムダな戯言なのかもしれないけれど。