詩がとびかかってくる
【文字数:約900文字】
先日にラジオを聞いていると、翻訳家でエッセイなども書いている岸本佐知子さんがゲストに登場した。
翻訳家になった理由からして面白い人だなぁと思いつつ、中盤あたりで翻訳したルシア・ベルリン『掃除婦のための手引き書』に関連して、詩の話が出た。
小説家で詩人でもある川上未映子さんとのやり取りを持ちだし、次のように続く。
同じようにルシア・ベルリンも小説家で詩人だったことから、その文体と関連があるのではとのこと。
それは自己流で詩を書いている私からしても、とても興味深い表現だった。
ちょうど1つ前の記事で、『本当のこと』という詩を投稿した。
他の詩でもあることなのだけれど、頭の上10cmあたりに浮かぶ「何か」を引っぱってくる感覚で書いた。
それは言語化するために自分へ寄せる必要があるからで、話に出た「とびかかってくる」という表現と本質的には同じだ。
翻訳という岸本佐知子さんの仕事とも近く、あくまで私は「何か」を日本語に変換している感覚というか。
おそらく私がこれまで見聞きしたものが影響しているにせよ、自分が受動的な立ち位置にあるという認識は、こと小説においても感じていた。
骨格となるストーリーを考えて、表現や展開などについて工夫するのは作者の領分ではあるけれど、あくまで物語を動かすのは登場人物たちだ。
やはり頭の上10cmあたりに浮かぶ情景を言語化する、どこか翻訳者のような感覚で手を動かしている。
だからといって名作と呼ばれるものが書けるわけでもないけれど、同じような趣味思考をもっているだけでも嬉しくなる。
例えば朝に飲む物が決まっているとか、けしからんことを日常的に考えているとか、同じ筆記具を使っているとか何でもいい。
そうした小さな親近感を多くもつことで興味が湧くし、他者への感心は自分を客観視するのにも役立つ。
内面を深く掘り下げるにしても、それを観測する視点がなければ息苦しさばかりがつのると、過去の経験から学んだ。
これからも自分という存在にとって、良き翻訳者でありたいと願っている。