このディストピアを、君は生き延びることができるか?:劇場版『GのレコンギスタⅠ』前編
はじめに
11月29日、劇場版『GのレコンギスタⅠ 行け! コア・ファイター』が公開された。
この作品が目指す目標は、「脱ガンダム」である。「Beyond」というプロジェクト名が示す通り、脱ガンダムとは、『機動戦士ガンダム』を超えるという意味だ。
ロボットものに革新を起こし、ジャンルを40年にわたって牽引してきた『ガンダム』を超える。壮大な目標の前に、一度はTV版で挫折したのだが、僕は、この劇場版には、それを成し遂げられるだけの可能性があると思った。
そこで前編では、劇場版Gレコがどのように変更され、どのようなメッセージを伝えているのかを確認する。後編では、『ガンダム』と比較し、『Gレコ』は、どのようにファーストを超えられるのか考察したい。
(注:TV版についても言及するので、『行け! コア・ファイター』以降の内容が含まれます)
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変更点①:R.C.はディストピアである
劇場版で何より強調されたのは、「『Gレコ』の世界観はディストピア」であることだ。
ゲル法皇やクンパ大佐のセリフが増え、ベルリとアイーダの主張がわかりやすくなった。結果より暗示されたのが、R.C.(リギルド・センチュリー)には秘密があり、世界が確実におかしな方向に進んでいることだ。
巨大ロボットのある世界が「ディストピア」とは到底思えないかもしれない。そこで、公式HPに載せられた富野監督の発言を振り返りたい。
巨大ロボット物というジャンルだからこそ、近未来も明るく楽しい物語にして描けるのではないかと考えて創りました。(『Gのレコンギスタ』パンフレットより引用)
「巨大ロボットものなら、未来を楽しく描ける」とは、どんなに苦しい世界でも、巨大ロボットなら楽しく演出できるという意味だと、僕は劇場版を見て思った。
巨大ロボットは、とにかく画面映えが良い。シンプルに「大きい」だけでなく、設定さえつければビームも剣戟もやりたい放題だし、攻撃を受けても血が出ないだけでなく、爆発もしてくれる。
戦隊ヒーローがなぜか毎回合体して巨大ロボットになることを考えれば、巨大ロボットは多くの人を惹き付ける優れた舞台装置であることがわかるはずだ。
加えて『Gレコ』では、キャラクターが積極的に感情を発露することで、幸せそうな空間を演出している。細かな所作からキャラクターの性格が感じれるのは、富野監督の魅力でもある。特に、TV版のアイキャッチでダンスするベルリたちは非常に印象的だ。
キャラクターの感情がすべて画面に現れ、どこまでもアニメーションならではの魅力が詰まっている。『ブレンパワード』や『キングゲイナー』の系譜をたどっていると言っていいだろう。
このように、巨大ロボットと、ダンスするキャラクターに彩られた『Gのレコンギスタ』は、多幸感に溢れている。
ED曲『Gの閃光』で、敵味方を問わず肩を抱きあって踊るシーンは、作中で争っていたことを微塵も感じさせない。
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しかし、その『Gの閃光』の中には次のような歌詞がある。
リアルは地獄
「地獄のようなリアル」とは、ベルリたちの生きるR.C.(リギルド・センチュリー)のことだし、R.C.が象徴する僕たちが生きているこの世界のことだ。
ベルリたちが生きるR.C.は、人類が栄華を極めた宇宙世紀が終わって1000年が経過した世界である。
ベルリやクリムは、キャピタル・ガードの候補生として、毎日を健康的に楽しく生きている。スコード教によって守られ、宇宙からエネルギー供給を受けている「キャピタル・テリトリィ」の生活は、一見充足しているように見えるだろう。
しかし、考えれば考えるほど、R.C.の世界は、おかしな所だらけだ。「科学者の夢」とも称される軌道エレベータがありながら、地上には舗装されていない道路がいくつも存在するし、まともな「移動手段」もない。
つまり、ベルリたちの住む「キャピタル・テリトリィ」では、都市開発がまったく進んでいないのだ。その癖に、巨大ロボットや宇宙戦艦を次々に建造する「不自然な」技術力がある。
この映画で地球を見下ろしている夜の部分の電気の光の量は、20世紀はじめのように少なくしてあります。(『Gのレコンギスタ』公式HPより引用)
さらに、キャピタル・テリトリィには差別や格差が蔓延している。
「クンタラ」と呼ばれるかつての被差別階級に対する偏見は抜けきっておらず、何かと差別をされる。しかも、吉沢俊一氏の発言によれば、セントフラワー学園の生徒たちは、養成学校の生徒を誘惑し、優秀な結婚相手を見つけなければ生きていけないという。
アイーダがモビルスーツに乗っていることに驚いたシーンからも、キャピタルでは女性が強く蔑視されているようだ。実際、アメリアやビーナス・グロゥブには優秀な女性パイロットがたくさん登場する一方で、キャピタルには一切登場しない。
ちなみにチアリーディング部は女性だけではないそうで。
「巨大ロボット」という幻想によって隠されてはいるが、R.C.の文化水準や技術水準は、私たちが住む世界と比較しても低いのだ。
解決すべき問題がこれほど散らばっているにもかかわらず、R.C.の大人たちは、この「不自然な技術」を使って、国家間で戦争を始めてしまう。
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「不自然な技術」は、すべて「ヘルメスの薔薇の設計図」という、宇宙世紀の技術が記されたデータベースを再現している。軌道エレベータも、宇宙世紀末期に建造されたものだ。
その軌道エレベータ「キャピタル・タワー」の運用目的は、宇宙から運ばれてくる「フォトン・バッテリー」を地球まで降下させることである。しかし、「フォトン・バッテリー」がどこで製造されているのか、地球に住む人間は誰も知らない。重要な事実は、スコード教が「宇宙世紀の再来を防ぐため」に「タブー」として隠蔽している。
富野監督の企画メモによれば、スコード教のタブーは4つ存在する。1つは、「カニバリズムのタブー」。これによって、宇宙世紀末期に被捕食層として差別されていたクンタラが解放されることになった。2つめは、人智が制御できない科学技術の発展を抑制する「アグテックのタブー」。3つ目は、「キャピタル・タワー」は聖地であり、無闇に近寄ってはならないタブー。タワーを防衛する目的がある。4つ目は、フォトン・バッテリーの存在や出処を疑ってはいけないタブーだ。
これらのタブーによって、地球にいる人間は、エネルギーがどのように生産され、どのように輸送されてくるのか何も知らずに、ただ宇宙から運ばれてくるエネルギーを妄信している。
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だから、アイーダの住むアメリアは、軌道エレベータが存在する「キャピタル・テリトリィ」だけがエネルギーを支配している構造を許せず、タワーの占領を画策する。
当然キャピタルも黙って占領を許すわけがない。受動的な「防衛」ではなく、積極的な「迎撃」を目的とする部隊「キャピタル・アーミィ」を設立する。そして、養成学校に通う優秀な候補生を次々採用し始める。
キャピタル・アーミィの量産機「カットシー」
このまま事態が進めば、キャピタル・タワーを巡って大陸間戦争がはじまり、多くの人間が犠牲になるかもしれない。しかし、大人たちはそれを知らずに、いや、むしろ自分たちの「正義」として掲げて、積極的に戦争に向かっていく。
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世界には、「賢者」も「悪役」も存在しない
『Gレコ』は、冒険譚の黄金律である、キャンベルの「ヒーローズジャーニー」に則っている。しかし、2つだけ異なる点がある。「賢者」と、「悪役」が登場しないのだ。
なぜなら、世界のすべてを知っているような「賢者」も「悪役」も、地球には存在しないからだ。
したがって、『Gレコ』の世界には、頼れる大人がほとんど、いやまったく登場しない。少なくともTV版では、ベルリもアイーダも、両親から何かを学ぶシーンは存在しなかった。2人にとって、親は逆に説得すべき存在だっただろう。
大人は頼りにならない。むしろ、自分たちの都合で、子供たちを「道具」として使おうとしてくる。だから、ベルリたちは自分たちで世界を学ばなければならないのだ。
唯一「賢者」として挙げられるとすれば、ビーナス・グロゥブでR.C.の理想を守り抜く「ラ・グー」だけだ。アイーダは彼と会うことで、自分の役割を考えるようになる。
先のことを言ってしまえば、クンパ大佐は元凶でありながら、操ることを諦めた脇役でしかない。
「事態は私の思惑などとっくに乗り越えられています(22話)」と開き直る彼は、まるで責任感がない。周囲からの期待と変えることのできない現実の前に押し潰された『逆襲のシャア』でのシャア・アズナブルとは正反対である。
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放っておいたら、子供たちは「兵士」として「道具」のように使い倒されてしまう。かつて宇宙世紀の悲劇の一部になってしまったカミーユやジュドーのように、理不尽な最後を迎えるに違いない。しかしながら、悪が生まれる根源も存在しない。
ベルリとアイーダが生きる世界は、こんなにも不条理に満ち満ちているのだ。そしてこれは当然、私たちの生きる世界の鏡でもある。これまでの設定を見返すと、僕たちの世界に痛烈に刺さる点が数多く存在するだろう。
一見幸福そうなアニメーションの背景には、この地獄のような世界が存在している。
しかし逆に言えば、このような厳しい世界でも、子供たちは精一杯っぱいに生きている。マニィは、クンタラとして差別される中でも「自分の力で」、天才であるベルリを追いかけるのだ。
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変更点②:ベルリ・ゼナムはアムロ・レイを超えなければならない
もう1つ目についたのは、TV版ではほとんど使われることのなかったモノローグが随所に取り入れられた点だ。
TV版が難しいのは、視点が行き来するからだけではない。ベルリの感情をあえて描かないことで、画面で何が起こっているのか、ベルリを通して、考えてほしいからだ。
デレンセンを殺してしまったときも、ビーナス・グロゥブにたどり着いたときも、ベルリの感情はほとんど描かれなかった。ベルリたちは、起こった事象を省みる暇もなく、流されるままに、次のシーンに移っていく。
断絶されたシーンの連続は、まるで情報化の進んだ現代社会のようでもある。確かに、さまざまな視点から眺めた群像劇が、1つの物語に収束していく演出力はさすがの一言だ。
しかし問題は、すべてを客観的に描いた代償に、ベルリが空虚になってしまったことにある。結果的に、ベルリがどのように成長したのかが描かれなかった。
確かに、視聴者はキャラクターを読解しようと努力すべきだ。しかし、だからと言って、主人公の感情を十分に描写しなければ、僕たちはベルリの物語から何も学べなくなっている。
『機動戦士ガンダム』は、主人公アムロがニュータイプに成長するまでの物語だ。そして、同時に、シャアが自分の出生と決着をつける物語でもある。理想を映した「アムロの物語」に、現実を映した「シャアの物語」が絡み合うことで、『ファーストガンダム』は私たちにリアルな未来を見せてくれた。
『Gのレコンギスタ』が『機動戦士ガンダム』を脱するためには、アムロがニュータイプに覚醒する成長物語とは全く異なる、『Gのレコンギスタ』でしか描けない「ベルリの物語」を描かなければならない。
しかし、TV版では、ベルリの物語は、アイーダの物語に完全に食われていた。
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そこで今作では、変更点①に加えて、ベルリにモノローグを使うことで、彼の人間性がわかりやすくなった。アイーダと対立するシーンや、流されるままに海賊船に来たシーンも、彼の心の声によって状況が説明されている(前作と比べると、くどいほど分かりやすい)。
ベルリは、頭の回転が速く運動神経もいい「飛び級生」だ。一方で、自分の感情を隠しがちで、周りに合わせようとする一面もある。アイーダへの恋情を隠しているだけでなく、人を殺してしまった苦しみも1人で抱えてしまう。
(震えながら)「あの人は、あのことを覚えてないんだ……。だから、僕のことを叱れる。」
また、キャピタル・タワーの運行長官を養母に持つ。逼迫した場面で「スコード!」と叫ぶのは、彼がスコード教の熱心な信者であるからだ。
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ベルリが直面する現実
ここで重要なのが、ベルリとアイーダの価値観もまた、完全に正しくはない点だ。
海賊船メガファウナを訪れてからのシーンは、ほとんどが新規カットだ。このシーンでは、ベルリ、アイーダ、ドニエル艦長の3人が、モノローグや会話によって、それぞれの立場を説明している。
例えば、ベルリはスコード教の信者なので、アメリアがタブーを破り、軍備拡張を進めることを許せない。
ベルリ「それって!噂のヘルメスの薔薇の設計図のことでしょ? そんなものに触るなんて、本当ばちが当たりますよ⁉」
ベルリ「トワサンガって……(中略)……スコード教の聖域、神聖な場所なんですよね!」
この2つのセリフの直後には、ドニエルやアイーダが呆れる描写が続く。自分の視界に固執しがちなのは、大人たちだけではなかったのだ。
アイーダ「そのキャピタル・タワーの姿勢が、世界の再生を遅らせて、結局!アメリアはゴンドワンと大陸間戦争をやるようなことになってしまって!地球は西洋世紀の時代に戻ってしまったんですよ!」
クリム「君の母上を脅かすものが宇宙から降りてくるとわかったから、キャピタル・アーミィが新設されたのだ」
実際、アメリアの2人からスコード教の教えとは矛盾する現実を知らされたとき、ベルリが衝撃を受ける描写がなされている。
TV版では、大切な人を失って嘆く(2話)のも、自分の無知を嘆くのもアイーダだけだった(18話)。しかし、劇場版によれば、ベルリの視線は、アイーダや、周りの大人たちと同じように不十分で、不適切なのだ。
「世界を知らない主人公」は、もっとも一般的な物語のきっかけだ。しかし、『Gレコ』は、「目の前に見える世界だけが真実じゃない」というメッセージを、これ以上ないほど直接的な形で伝えてくる。
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アイーダ・スルガンとシャア・アズナブル
一方のアイーダも、アメリアの思想に染まっていることや、恋人を殺されてベルリを憎んでいることが、TV版以上に強調されている。
ボーイ・ミーツ・ガールの方程式通り、ベルリにとって、アイーダは自分の知らない世界から来た存在であり、自分の知らない世界を代表している。
物分かりが良いベルリと対照的に、アイーダは頭より先に身体が動くタイプだ。
ポンコツ系って言っちゃだめだぞ。
血気盛んな彼女は、要所にも必ず顔を出し、物語を前進させていく。ベルリは、そんな彼女と一緒に旅をして、時に対立し、時に助け合うことで、この世界の秘密を探すのだ。
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冒頭で、「想像しなさい!」、「世界は四角くないんだから!」と叫ぶセリフは、ベルリを通して、僕たちを叱っている。
この2つのセリフには、『Gレコ』のすべてが詰まっている。本来四角くない世界にカドができてしまったのは、想像力が足らない人々が自分たちの都合でしか動かないからだ。
そしてTV版では、以降も、『Gレコ』という物語が伝えたいことは、すべてアイーダのセリフに現れる。
月のトワサンガに向かうことを決意したのも、ビーナス・グロゥブに行く決断をしたのも彼女だ。
「あの人たちの話だけで何がわかりますか?」「だから確かめにいくんでしょう⁉」(13話)
16話では、ベルリとアイーダが、ビーナス・グロゥブをつくったレイハントン家の子孫であると知らされた。しかし、その宿命に対しても、アイーダは「あなた方に使命というもの、理想とする目的があるにしても、そのようなものは、私は私自身で見つけて、成し遂げます! 時代は、年寄りが作るものではないのです!」と高らかに叫んだ。
このアイーダの発言は、「新しい時代を作るのは老人ではない!」と叫んだクワトロ・バジーナことシャア・アズナブルを思い起こさせる。
『機動戦士Zガンダム』50話
『機動戦士ガンダム』から『逆襲のシャア』までにおいても、物語を動かすのは常にアムロではなくシャアであった。
もちろん軍人と士官という立場の違いのせいもあるが、基本的に宇宙世紀シリーズは、シャアの行動ありきで物語が進む。
『Zガンダム』は、ジオン公国が敗れたあと地球に潜伏したシャア・アズナブルが、地球の重力に取りつかれた人々が宇宙にある希望を葬っていくのを目の当たりにしたことで(あるいはアムロ・レイを再び戦場に呼び戻したことで)、再び自らの手で地球人に宣戦布告することを決意するまでの物語とも言える。
シャアが突きつける現実に、アムロが未来を提示する。『ガンダム』が伝説になれたのは、「アムロの物語」と「シャアの物語」に万人が共感したからではないだろうか?
アムロの物語とシャアの物語が絡み合うことで、『ガンダム』は伝説になった。第1作では、尺の都合上、アイーダとベルリはまだ理解しあえてはいないが、今後ベルリの物語とアイーダの物語が絡み合うことで、どのような未来が待っているのか期待が高まる。
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変更点③:道具の使い方を知るためには
劇場版では、第1作の段階からテーマが示されることで、物語の行く末がより明確になった。アイーダが早い段階で「道具の使い方」について言及した点が挙げられる。
早朝のシーンには、アイーダが「エネルギーと道具は! 道徳的に正しい使い方ができれば!」と叫ぶシーンが加えられた。しかし、自分も他国を侵略しているし、不慮の事故でカーヒルが死んだ翌日なので、まったく説得力がない。案の定、クンパ大佐にあっさり論破されてしまう。
やっぱりポンコツなのか……?
このアイーダの発言は、アーミィのパレードで議論する大人たちとまったく同じ次元にある。
クンパ「息子さんを助けようと、アーミィは必死なのですがね」
ベッカー「同時にキャピタル・アーミィはアメリアとゴンドワンをけん制しつつ、宇宙からの脅威へも対応しようとしているのです」
ウィルミット・ゼナム「フォトンバッテリーを届けてくださる尊い方々が、なんで脅威になるのです⁈」
◇
「『チートスキル』を持つGセルフをどのように扱うか」は、現実を批評する1つのテーマでもあった。
ベルリたちに迫ってくる敵は、「道具の使い方を知らない」として否定されていく。このようなシーンは、ラライヤが「あなたたちは、そういうものを使う意味がわかっていません!」と叫んだシーン(26話)をはじめ、TV版では何度も現れた。
しかし、「道具の使い方」は問題の表層に過ぎない。
というのも、アメリアとキャピタルも、自分たちの行為を正しいと考えている。アメリアは宇宙からの脅威が迫っているために、キャピタルは他国に対抗するため、人質を解放するために軍備を増強している。
地球への「レコンギスタ」を望むトワサンガさえ、目的のために軍備拡張をいとわない。トワサンガの将軍ノゥトゥ・ドレッドはレコンギスタ計画を急伸するために、地球に宇宙艦隊を仕向けてくる。地球の実情を知らない彼らもまた、「世界を四角くしている」原因の1つなのだ。
クンパやベッカーの詭弁を見れば、「正しい道具の使い方」なんていくらでもでっち上げられることが理解できる。そして、ベルリの母親も、神聖視するあまり世界を直視できていない点で彼らと何も変わらない。
◇
では、どうすればいいのか。
「想像しなさい」と言われても、地球から動かなかったら、タワーの頂点「ザンクト・ポルト」までしか想像力は及ばない。
しかし、実際には月には「トワサンガ」というコロニーがあり、その先には「ビーナス・グロゥブ」というエネルギー供給地点がある。そして、そこにも暮らしている人々がいるのだ。
大切なことは、地球にいても何もわからない。世界には、僕たちの想像も及ばない場所がある。
だからこそ、『Gレコ』のキャッチコピー通り、「君の目で確かめ」なければならないのだ。想像するためには、行動しなければならない。「動かないままなら、始まらないから、立ってみて歩」かなければいけないのだ。その先にしか、「未来という閃光」はないのだから。
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なぜ最終決戦の相手がルイン・リーなのか
道具の使い方を知らない人間は、自分が道具にされていることにも気づけない。相手と解りあえずに悲劇の最後を遂げる子供は、『ガンダム』シリーズに数多く登場する。
『Gレコ』で最もその役回りを担うキャラクターは、ベルリの同級生ルイン・リーだ(飛び級生のベルリから見れば2つ上の「先輩」)。
ルインは自分の出生に負い目を抱いている。だから、運航長官の息子であり、モビルスーツも自在に操れるベルリを憎む。出世したいという野望は、運航長官の息子であるベルリとは比べ物にならなかっただろう。
しかし、彼の野望は「大人たち」によって搾取される。優秀な彼は、アーミィでも部隊を率いることになるが、クンタラ出身者が部隊を率いると士気にかかわる。素性を隠すためにマスクをかぶったその姿は、奇しくも『ガンダム』の宿敵シャア・アズナブルを思い起こさせる。
セントフラワー学園の女子に「ダッサーw」と笑われる図
しかし、不幸にもルインは、シャアのように王の血を継ぐものではなかった。世界の真相からもっとも離れた場所に生まれた彼は、自分の夢を体制に搾取され、兵士という道具として扱われる。このとき、彼は人間をやめ、戦闘単位として数えられるになったのだ。
最終決戦において、ベルリはかつての「ジャブロー基地」で、ルイン・リーと一騎打ちになる。ルインが最終決戦の相手なのは、彼こそ、この物語の歪みをもっとも象徴する存在だからだ。
ベルリは結局相手が旧友クリム・ニックであることすら知らずに、物語は終わる。
◇
「君は生き延びることができるか」
ただ流されるまま戦争に巻き込まれたベルリは、相手が誰だかすら知らないまま、争う必要のない人と争い、殺す必要のない人を殺してしまう。
あらゆる無線通信を停止させるミノフスキー粒子がもたらす悲劇は、今回の劇場版でも変わっていない。
『機動戦士ガンダム』で、アルテイシアは言った。「兄さんとアムロは、本当は争う必要なんてないはずなの」と。
シャアは言った。「パイロットでは体制は崩せんよ。ニュータイプ能力を戦争の道具に使われるだけだ」と。
ララァは言った。「ニュータイプは、戦争のための道具ではないのよ」と。
リアルは地獄だ。目の前に広がる世界は、間違っているかもしれない。僕たちは旅に出なければならないのだ。
『Gレコ』では、富野監督がまた時代を鋭利に切り取っている。それは観た人にはすぐに理解できるだろう。ベルリたちが直面する世界は、そのまま僕たちが生きるこの世界でもある。
『ガンダム』の次回予告は、必ず次の言葉で締めくくられる。「君は生き延びることができるか?」
真実が隠されたまま、崩壊へと進む『Gレコ』の世界を冒険するベルリとアイーダを通して、富野監督は、「この現実を生き延びることができるか?」と、私たちに問うているのだ。
富野監督らしい、なんという難題だろうか。だが、シャアの裏にアムロがいたように、どこまでも厳しいR.C.の世界は、人間に対する愛と期待の裏返しでもあるはずだ。
(後編につづく)
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(閑話)
僕がラライヤだったら、自分が記憶を失っているときに「ぱぁ♡」とか「ちゅちゅみぃ♡」とかやってると知ったらもう帰れないですね。強く生きてほしい。