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【雑記】『Gのレコンギスタ』は『ガンダムUC』を否定している

『Gレコ』関連の記事も3つ目になりました。

今回のテーマは、『Gレコ』は『UC』の否定形として生まれたのではないかという仮説の検証です。

『Gレコ』は、監督の前作『∀ガンダム』を土台に作られています。そのため、「宇宙で暮らす人々と、それを知らずに地球で牧歌的生活を営む人々」という構図をはじめ、『Gレコ』は『∀』と共通する設定が多くみられます。

しかし、そこから描かれる物語は真逆と言っていいでしょう。『∀ガンダム』は、宇宙世紀のすべてを否定しながら肯定する終焉の物語ですが、『Gのレコンギスタ』は、新しい世界を始めるための物語です。

サンライズ公式より引用

物語の構造で見ると、むしろ『Gレコ』は『ガンダムUC』と酷似しています。『Gレコ』を考察している間に思ったのは、富野監督がこの福井晴敏作品を強く意識している可能性です。

時系列で言えば、OVA版の『ガンダムUC』が、2010~2014年に公開されたのに対して、TV版『Gのレコンギスタ』は2014~2015年放映。『Gレコ』はちょうど『UC』の後を追う形で公開されてます。

『UC』の小説は~2009年に発刊され、『Gレコ』の企画書が2010年頃提出されたことも踏まえると、富野監督は直前に公開されたガンダムに何か思うところがあって、それが『Gレコ』に影響したのかもしれません。

そこで両者を比較するべく、『UC』と『Gレコ』の共通点と相違点をスライド4枚にまとめてみました。前回は10,000字近い文量でしたが、今回はあっさりいきます。

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スライド4枚でざっくり比較する『ガンダムUC』と『Gのレコンギスタ』

共通点を並べると、『Gレコ』は『UC』と似ているどころか、まったく同じ物語構造をしていることがわかります。そして、まったく同じ物語構造をしているからこそ、両者の違いは非常に際立ちます。

構造論で言えば、両者の大きな違いは、冒険において知る事実が、「視聴者も知っている要素」なのか、「誰も知らない未知の要素」なのかにあります。

つまり、『UC』において、僕たちはバナージより情報的に優位にありますが、『Gレコ』では、僕たちはベルリと同じ立場にいるのです。したがって、『UC』では視聴者はバナージを見守り、『Gレコ』では視聴者はベルリと一緒に旅をすることになります。それぞれの対象年齢を考えれば、当然の演出と言えるかもしれません。

『UC』の物語は、バナージと同時に、ブライトなど歴戦の戦士たちがもう1つの主役です。一方で、宇宙間戦争が1000年起こっていない『Gレコ』の世界に、戦場を長年生き抜いてきた兵士はいません。

物語が否定する敵も大きく異なります。『UC』の敵は、問題に目をつぶりながら現状維持を目論むマーサや、根本的解決ではなく立場の逆転を図るフル・フロンタルは、「可能性」を殺す存在です。一方で、自分の利益だけしか考えない『Gレコ』の大人たちは可能性をはき違えています。

そして、『UC』では可能性を認めない大人世代も最後にはバナージの放つ光を認め、一応の救いを見ます。一方『Gレコ』では、はき違えた大人たちは軒並み死んでいき、世界を旅した子供と、それを信じる大人だけが残ります。

どちらも「理解しあえない人々が理解しあうには?」という大きなテーマを掲げ、その解答として、「少年が成長」し、「人類の善意」を受け継ぐという解決策を提示しています。しかし、成長の中身と、解決の方法が異なるのです。『UC』が有能な少年が大人の経験に基づいて成長するとともに、すべての人類の自覚が変わる理想を願ったのに対して、『Gレコ』は子供に自力で成長することを求め、自身の悪性に無自覚な大人が滅びたのちに未来をつくる現実的な解決策を提示します

子供の大きな希望と、期待を描こうとしてきた富野監督ですから、『UC』の大人に依拠した物語に対して、明確に「子供のための物語」をぶつけたのかもしれません。正確なことは当然本人に聞かなければわかりませんが、『Gレコ』で富野監督は、『UC』を強く意識したうえで、『UC』の描く少年の成長とは明確に異なる物語を描きたかったのだと、今回はひとまず結論づけることにします。

「巨大ロボット」が作る、現実よりリアルな虚構

僕はどちらかの作品を否定したいわけではありません。それでも、両者が正反対に向かおうとしているのは事実です。『UC』は、内容からしてファーストガンダムへの強い尊敬とオマージュが見られますし、『Gレコ』は目標として脱ガンダムを掲げています。

架空年代記を掘り下げることを目的とした「UC NexT 0100」プロジェクトは、いよいよ宇宙世紀0100年の大台を超え、続いて『閃光のハサウェイ』を映画化しようとしています。それに対して、『Gレコ』は、新しい世紀のもとで新しい世界観を構築しようと、全5部作の映画化が進行中です。

方法は異なりますが、虚構を通して、現実世界を鋭利に批評しようという姿勢はどちらも変わりません。

ハサウェイ映画化に当たって語られた富野監督のメッセージはきわめて示唆的で、痛烈です。

こうして同じ作品群で異なる2つのプロジェクトが同時に進行していると、それぞれのテーマやスタンスを同条件で比較できるので、本当に楽しいですね。オタク冥利に尽きます。

『オルフェンズ』も加えると、「モビルスーツ」が一度に3つの異なる世界線に存在したことになります。最高か?

それぞれの作品が行き着く先に、何を見せてくれるのか。

2020~2021年には、『ヱヴァ』の新劇、『エウレカ ハイエボ』など、時代を牽引した作品の新編が軒並み最終回を迎えます。

富野監督によれば、巨大ロボットを登場させるなら、必然的に世界を描くことになります。とすれば、巨大ロボットにこそ描ける未来の可能性があるのではないでしょうか。時代が変わる瞬間を目の当たりにできることに感動しつつ、紡がれる未来を受け止める覚悟を持って作品に臨みたいです。

ところで

同じような作品群が併存した過去の例として、宮崎駿監督の『となりのトトロ』と高畑勲監督『火垂るの墓』も同じ構造にあります。同時公開の両作品は、どちらも昭和の現実世界を舞台に、子供たちの体験を描いた作品です。

しかし、アニメにしかできない表現でリアリティを持たせる宮崎駿監督と、徹底して自然主義的リアリズムに基づく高畑勲監督は、同じ舞台を、正反対の物語に仕上げました。理想の昭和社会(家族の愛と級友との友情)を舞台にファンタジーを描く『トトロ』と、現実の昭和社会(戦争に巻き込まれ親を失った子供)を舞台にドキュメンタリーを描く『火垂るの墓』。

偶然とは思えないほど、『火垂るの墓』は『トトロ』の理想に現実を突きつけています。これもどちらが悪いという話ではありません。詳しくは評論家の大塚英志さんが語ったニコニコ生放送を参照してください。(放送よりスクリーンショット)

制作は後者が遅れてついに完成しなかったそうですが、高畑監督が『トトロ』の絵コンテを見たうえで作ったかはわかりません。同じ舞台を同じ時期に作ったら、天才は偶然同じ表現を仕立てたのかもしれません。

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