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三島文学の欠点

ベスター  変なことを聞くようですけど、三島さんが自分の文学を見て、欠点といいますか、しょうがないけど自分の文学に欠けているもの、そういうものが何か・・・・・・。

三島由紀夫  僕の文学に欠けているものは、そうですね・・・・・・。

ベスター  本当はそういうことをお聞きしても意味ないかもしれません。厳密に考えて意味ないことなんですけど、表面的に考えていただいて。

三島由紀夫  (しばらく考えて)それは自分でいつも欠点を感じながら書いていて、自分にはこれは書けない、あれは書けないと思ってセレクトしているわけでしょう。僕の文学の欠点というのは、小説の構成が劇的過ぎることだと思うんです。ドラマティックであり過ぎるんです。それはどうしても自分でやむを得ない衝動なんですね。例えばヴァージニア・ウルフみたいな小説を書きたいと思っても、僕には絶対書けないんです。現実とか、自分の心理とか、そういう流れのままに文章になるということができないんです。僕は全部つくっちゃうんですよ。そうすると、現実をそのまま移す、移すっていうのは写生するんじゃなく、トランスファーすることはできないんです。一度、間にフィルターをかけなければできないんです。小説というものは、ある意味では、本当はそうでないものかもしれません。現実がそのまま小説の中に流れ込んできて、中でいろいろ変化、変貌して、作者の手が及ばないほどに人物が変貌していく。そういうものが小説として理想的かもしれませんけど、私はそういうことができないんです。これと決めたらこれなんですよ。

ベスター  一般に小説と言われているものでも、いろいろあるわけですね。

三島由紀夫  あるわけですけど、僕のはドラマティック過ぎるんです。

ベスター  三島さんは、小説というものを理想としてどういうふうに考えていらっしゃるんですか。

三島由紀夫  理想としては、僕はやっぱり建築とか音楽とかというのが理想で、それに近づけば近づくほどいい小説だという考えが抜けないんですよ。ですから、大きなカテドラルみたいな小説が書ければうれしい。そのかわり、大きな川の流れのような小説は僕には書けないんです。



ということでヴァージニアウルフの灯台へを読んでみたのだけど、すごい難解なんですよ。
登場人物が多くて、それぞれの内心みたいなものを描いていく。
とてもじゃないけれど読めない。時間がない。
なにか予感的な雰囲気もない中読み続けたいとなかなか思えない。
確かになにか文章に風が吹いているようなものを感じるんですけどね。
今の私には遠いかなあ。
文体や表現が日本語的とは言いがたい単純な読みにくさもしんどいかな。
でも三島由紀夫が言っていることはわかる気がします。
三島由紀夫の厳格な文体の読みにくさとは全く違う風のような読みにくさ。

そうだな、やっぱり文章に予感的なものが足りないから困惑するのかもしれない。
文章自体は美しい。訳されたものだけどね。
日本で彼女のような書き方をする作家も居そうな気もするけど。
こういう作品を映像化してほしいのだよなあ。
ただそう簡単に映像化できるとは思えないのだけど。

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