珈琲不演唱を考える夜に
日本ではコーヒー党と紅茶党だと、コーヒー党の方が多いとどこかで聞いた。私はどちらかと言えば紅茶党なのだが、所詮デイリークラブやリプトンのティーバックくらいでしか紅茶を嗜まない私があれこれと言う話でもないだろう。
そして紅茶の方が好きと言っても、コーヒーを飲まないという訳でもない。まぁ此方も職場に置かれている、商品名も覚えていないインスタントコーヒーを週に1~2回呷るくらいである。
別段苦いものが嫌いという訳でもない。なんなら、紅茶も無糖で飲むし、コーヒーも同じく無糖でミルクも入れない。恐らく、私が紅茶の方を選ぶのは、その方がなんとなく西洋風だからだと思う。実際どうなのかはよく分からないが、そんな理由で紅茶が好きというのもおかしな話である。
しかし最近の私は無性にコーヒーが飲みたい。というのも、最近Apple Musicでこんな曲を見つけたからだ。厳密に言えば、見つけたのはカバー版なのだが、まぁその話は置いておこう。
こんなにキャッチ―な曲があるものなんだなぁ、と思う。
最初のフレーズを聞いた時、思わず「えっ、ナニコレ」と声が出た。
京都の地理に詳しくはない私でも、三条と言われればなんとなく京都のどこかにあるのかなぁと目星はつく。
その後に「三条堺町の イノダっていうコーヒー屋へね」なんて倒置法のような流れ。誰に言っているのか、少し説明がかったような歌詞。
誰とも知らぬ、あの娘に、熱いコーヒーを淹れてもらって。フランスの政治家タレーランは「よいコーヒーとは、悪魔のように黒く、地獄のように熱く、天使のように純粋で、愛のように甘い」と言ったそうだが、あの娘に淹れてもらったコーヒーはまさにそれなのだろうと、勝手に夢想する。
あぁ、私も三条へ行かなくちゃ。行かなくてはならない。最早使命とも言える衝動が私を揺さぶるのだ。こんなご時世でなければ、今すぐ有給を取って家を飛び出すというのに、この曲を知ったタイミングが悪かった。もう少し早くか、もう少し遅くに知りたかった。あの娘が淹れたコーヒーの、最後の一滴がカップに落ちるその瞬間、きっとその時が、一番あの娘が美しく見える瞬間だと思う。そしてカウンター越しに、誘いの言葉を投げかけるのだろう。そんな妄想をしながら、三条へ向かうことのできる日を待つしかない身がもどかしい。
…しかし、そもそも「あの娘」って店員のことを指しているのだろうか?勝手に先入観でそう思っていたけれど、違うかもしれない。もしかすれば、「あの娘」は常連客の一人で、一緒にコーヒーを飲もうと誘っているのかもしれない。熱いコーヒーは少しでも長く彼女といるため。最後の一滴が勝負なのは、飲み干された瞬間、彼女に「この後、少しばかりどうです?」とまた別の場所に誘うため。
いや、それか、「あの娘」というのはコーヒーそのものを指しているのかもしれない。先程のタレーランの「よいコーヒーとは、悪魔のように黒く、地獄のように熱く、天使のように純粋で、愛のように甘い」という言葉を聞くと、珈琲が美しく清らかな淑女に見えてこないだろうか。
駄目だ、考えても答えが出てこない。そういえば、我が家にコーヒーのストックはあっただろうか。2月の夜はまだ冷えるから、「地獄のように」熱いコーヒーでも淹れてみようか。勿論、そのお供には優しいギターと声、その裏に情熱を孕んだ「珈琲不演唱」を用意して、長い夜に考察するのもいいかもしれない。もっとも、夜が更ければ更けるほど、三条に向けて家を飛び出したくなるのだから、飲みすぎには注意しなければいけないのだが。