百合姫読切感想・考察集⑨「再定義する希望」「継ぎ接ぎの希望を抱いて」から3作目を予想してみた
※今回のヘッダー画像は、みんなのフォトギャラリーより「稲垣純也」様の写真を使用させていただきました。荒廃した衛星という感じがぴったり。
突然だが、私は百合というジャンルが好きだ。
そら殆ど百合作品の感想しか投稿していないのだから、どこからどう見てもそうに決まっている。百合というジャンルに込められたどのような「百合」の形も、一つの愛の結晶、一つの友情の形、一つの昇華した関係、あるいは個々人の百合に対する表現…etc、として捉えるべきであり、だからこそ様々な百合の形がこれまで創られてきた。しかし、私は百合が描かれた作品全てが好きというわけでもない。
百合というジャンルはいわば中分類に属するものであり、その上にはもっと大きな枠組みが構えているし、その下にはもっと小さな枠が同じように存在するものだと思う。しかしそもそもジャンルというものは、その作品の主題を表すものであるから、百合姫に掲載されている作品は全て「百合もの」と一括りにジャンル分けした方が自然のようにも思ってしまう。勿論その一言では作品の差異を表現することが出来ないし、作者・読者という両者の作品に対する機微を失うことにもなる。それ故に、当たり前のことではあるが、作品を構成する他の要素を加えて「学園百合」「社会人百合」「百合SF」「百合コメディ」などと(ある種無限に)細分化が行われる。
この時、百合要素以外の部分―学園、SF、といった部分である―が、単純に私にとって苦手であったり、またその要素が著しく百合という要素を阻害するものであると個人的に判断してしまった場合であったり、ともかく百合という要素よりも他の要素が大きくなり、かつそれが何かしら自分にとって不都合なものであるという時に、私にとってその作品は「百合」では無くなる。
一方「普通の」作品の中で、例えば登場人物の女の子同士が何かしら密接な行動を取ったり、お互いを想うような描写があると、私は当然ながらそこに「百合」を感じる。バトルものの中で、ミステリ、あるいはスポ根といった、様々な大分類の中に百合要素が入ってくると、そのジャンル問わず、私はその百合を好意的に捉えることになるだろう。
つまるところ、作品の主題としての「百合」と、作品に対して副次的な役割を持つ「百合」は、そこに同じような境遇・背景・展開があろうとも、読み手として同じ見方は出来ないのではないか、ということである。「百合」作品を読もうとして、その百合が様々な独自要素―例えば複雑な独特の世界観、作中のキャラクターのセリフやモノローグで長々と説明される設定、あるいは説明されない固有名詞―を原動力にするものであれば、読み手は当然その要素を理解する必要に迫られる。その要素が一定の、作品によって変わる上限値を超えると、その作品の主題から「百合」が転落するような気がするのだ。
というわけで、長々と序文を連ねてきたが、何が言いたいかというと、私は余りSF系の百合が得意ではないということだ。ここまで引っ張ってきて結局個人の嗜好じゃねぇか、と皆様が思うのも尤もなことである。ちなみにあとバトル系の百合もあんまり得意ではない。そういう意味では、やはり日常系というジャンルは百合と親和性があるのだろうと思うが、まぁその辺の話は気が向いたらすることにしたい。
何故こんな話を↑でしたかというと、百合姫7月号の読切「継ぎ接ぎの希望を抱いて」が、その表紙にも書かれている通り「百合SF」だからである。私もこの機会に、一度腰を据えてSF×百合というジャンルに向き合わなければなるまい、と誰に向かってか決心した次第なのである。
しかし今作は「百合SF読み切り、第2弾!」と銘打たれている通り、作者のこるせ氏は百合姫4月号にて同じく百合SF「再定義する希望」を掲載しているのである。そして読者の方々も既にお気づきの通り、二つの作品は同じ世界の話で、「再定義する希望」(以下「再定義」)は「継ぎ接ぎの希望を抱いて」(以下「継ぎ接ぎ」)の数百年後の話である可能性が高い。というわけで、「継ぎ接ぎ」と「再定義」の感想を纏めて書いてしまい、出来ることなら作品間の繋がりなどを考察し、10月号にて発表されるであろう三作目の展開を予想していきたい。というわけで、1700字くらい使ってようやく本題に入る。まぁどうせ誰も読んでないだろ…。
・キャラクター◎
というわけでまずは全体の感想をあっさりめで書いていく。
まず「再定義」を読んだ時、風景描写がかなり曖昧模糊に描かれているという印象を持った。「継ぎ接ぎ」では画風がよりスッキリしており、世界の状態に応じて意図的に画風を変えていることが窺える。それでも個人的には、「再定義」の方は少しやりすぎではないかと思った。人類が滅亡して数百年後の世界の荒廃した都市、というものを表現する分にはいいのかもしれないが、スペランツァが言ったような「こんなに綺麗な」世界という雰囲気は中々感じにくい部分があるのはないだろうか。
キャラクターに関してはとても好きで、デザインは勿論、性格付けについても分かりやすく、読み手が作品を理解する一助になっていると感じる。「再定義」では、まだ幼く、外の世界を夢見るスペランツァと、優しく器用で、ラリベルタをとても大事に思うラリベルタ、そして全てを包み込むような母性を持つ「ママ」。「継ぎ接ぎ」では、誰もが認める天才だが、生活能力のないタイレル博士と、そんな博士を補佐する、真面目でまっすぐなマドカ。どちらもぱっと見王道の配役で、だからこそSFという難解な背景にはぴったりだと思う。施設を放棄する前、「ママ」の意図を汲み取り、逡巡せずにスペランツァに呼びかけるラリベルタや、「未来はきっと明るい」と最後に不安になるマドカに対し泰然と構えるタイレルといった、王道ながらもしっかりとした「かっこよさ」をキャラクターそれぞれが持っている所は大変いいと思う。
私は特に、「再定義」のラリベルタのシーンが好きだ。軌道エレベーターからの落下物で負傷したシーンの表情や、再起動後の反応。そしてスペランツァの元に帰るシーン。全てがある種淡々としていて、読み手の感情にストレートに訴えかけてくるようだった。その前にスペランツァが星のカケラ(=恐らく軌道エレベーターからの落下物)に祈るシーンが入るのも相まって、大変に心に刺さる。ラリベルタの言葉の端々からスペランツァを大事にしているのが分かり、アンドロイドという特質からくる淡泊さと感情を上手く織り込んだキャラクターになっていると思う。そういった意味では、先にあげた背景の曖昧さも、逆に広大な世界の中、触れ合うことすらできないスペランツァとラリベルタの関係、即ち二人の百合世界に強く読み手が入り込める気がするので、そういった狙いがあるのかもしれない。
・希望と絶望、どちらも持たせる作りの上手さ
「再定義」「継ぎ接ぎ」共に、タイトルに「希望」という文字が入っている。時間軸的に先の話である「継ぎ接ぎ」では、人類を存続させるために奮闘する人々の姿が描かれていて、「再定義」では生きる意味が無かったはずの少女・スペランツァがラリベルタと出逢い、生きる意味を見出していくまでの話が描かれている。
「継ぎ接ぎ」では、人類滅亡のカウントダウンが始まり、さらに人類存続のための研究を妨害する勢力の存在により、まさしく崖っぷちの状況が描かれているが、タイレルがMAMAに「私たちの未来頼んだよ」と言ったり、「大丈夫 未来はきっと明るいよ」とマドカを安心させたりと、希望を持たせるセリフや要素も十分にある。未来に向けて、人類が生き残る道は完全に断たれていない。
「再定義」では、施設を旅立つ際に、別の施設には「空気の清浄化が出来る装置」「ラリベルタの本格的な修理」を可能にするものがあるかもしれない、とMAMAが発言し、物語が終わった後の二人の行く末に微かな希望を持たせている。それも全くの希望的観測であり、二人の命がほんの少し伸びただけというのが実態なのかもしれないが、それでもハッピーエンドへの道筋を残しておくのは次作への期待がさらに膨らむ一因になっているだろう。
・考察のための現状確認
というわけで早速考察に入る。というか早く入りたくて仕方がなかった。あと思い付いたことどんどん書く気がするので、説と説の整合性が無いと思うが許して。というかこの項読まなくてもいいです。
まずは考察にあたって前提条件を決める。
①「再定義」「継ぎ接ぎ」は同じ世界の過去と未来を扱った話とする。 ②スペランツァはタイレルのクローンである。
①はそもそもの部分として、二作品に関連性があるという前提である。「再定義」では、「人類が滅亡した原因は気象制御衛星の事故を発端とする戦争」となっているが、「継ぎ接ぎ」でタイレルが稼働しようとしているのは「外気清浄化衛星」であり、作中では研究所の襲撃までしか描かれておらず、その後(あるいは以前)「事故」のようなことが起こったかは特定できない。即ち明確に二作品に時間的な繋がりがあるとは判断できないのだが、今回は繋がりがあるという前提で進めさせていただく。その方が色々収まりがいいからね()
②はタイレルが「継ぎ接ぎ」の序盤で自身のバックアップとしてクローンを作っていたことと、クローンを作るために「MAMA」というロボットを稼働させていたことから、「再定義」のスペランツァの話と整合性が大体取れるために、スペランツァ=タイレルのクローンという部分を確定事項という前提にする。何故人類滅亡から数百年の後でもスペランツァは子供の姿をしているのか、一体スペランツァはどのような経緯で生を受けたのかが判断しにくいところであるが、まぁその辺も考察できたらいいな。
・「継ぎ接ぎ」後の世界について
「継ぎ接ぎ」から数百年後の世界と予想される「再定義」の世界は、廃墟となった文明時代の建物が草木に覆われ、起動エレベーターからの落下物が夜な夜な文明の残骸を破壊する…、といった感じに描かれているが、「再定義」の方では、「人類は地下に追いやられた」旨の話が出ている。それにしては、「再定義」でスペランツァがママと住んでいる所は周囲に植物が生え、軌道エレベーターが見える「地上」的な感がある。ここから、「継ぎ接ぎ」時に地下に存在した「MAMA」をどこかのタイミングで地上に持ち出したことが予想される。それがどのような形で行われたかは想像できない。しかし、地上世界の環境を考えると、態々地上に拠点を移すとは考えにくい。まして、「継ぎ接ぎ」に出てくるテロ組織(最初はEDF…Earth Depurate Front?と書いてあるが、途中ではEPF…Earth Purification Frontとなっている。表記揺れか、はたまた故意なのか)はマスクをつけていることから、地上を勢力圏にしていると思われるので、その状況で「切り札」とも言うべきクローンを地上に移すとは考えにくい。
となると、地上に移した理由はなんなのか。もしかすれば、「地上の環境が改善されたため移動したのではないか」。つまりはこういうことだ。
「継ぎ接ぎ」のラストでタイレルがテロ組織に捕まる→タイレル、なんとか外気清浄化衛星を稼働させる→地球環境なんとかなる→人類地上に戻る。研究施設も地上へ→一時の平和が訪れ、MAMAも休眠される→清浄化衛星で事故、タイレル博士急死→再び戦争へ。MAMAを稼働しクローンを生成するも、なんらかの理由で衛星の復旧に失敗。→人類滅亡後、クローン生成という義務しか与えられていないMAMAは何世代もタイレルのクローンを生成し続ける→スペランツァの代になり、ラリベルタと出逢う
という感じである。ぶっちゃけ穴だらけな予想である。ただやはり「継ぎ接ぎ」と「再定義」の歴史の矛盾は、間に何か挟まっているから、という解釈がしっくりくる気がする。しかし数百年前に人類が滅亡したというのに、「再定義」の時代もクローンであるスペランツァが育てられていたりと、まだまだ謎は多くある。というわけで、その辺を踏まえて、3作目の展開をスパッと予想する。とりあえず両作品の登場人物の発言を全て正しいものと仮定した上で、それをなんとなく矛盾なさげ(矛盾しないとは言っていない)に繋げてみようと思う。
・ズバリ予想!三作目はこんな展開だ!
「継ぎ接ぎ」のラストでテロ組織の人質とあったタイレルは、自身の命と引き換えに外気清浄化衛星を起動する。テロ組織は壊滅し、地球環境は改善したが、それを維持するために、タイレルの研究を受け継いだマドカが外気清浄化衛星に増設する形で気象制御衛星を設置。人類は、僅かな土地と人口の島を生存圏として地上に復帰する。タイレルの開発した外気清浄化衛星と、マドカの開発した気象制御の両方に対してバックアップを取るために、マドカはタイレルのクローンを作るための「MAMA」に自身のデータとタイレルから預かったデータカードを入れる。そして、クローンであるタイレルの世話をする人が必要と考え、自身が所有していたアンドロイドにも自身の記憶データを保存させ、将来タイレルのクローンと一緒にいられるようにスリープした。その後事故(あるいはテロ組織の残党の行動)により気象制御衛星が爆発、マドカもその時亡くなり、クローンはなんらかの影響でその時生成することが出来なかった。その後再び起きた人類同士の戦争で、とうとう人類は滅亡寸前に追い込まれた。わずかに残った人々は月に退避する前に、いつの日か地球に帰ってくる日のために「MAMA」に周期的にクローンを作らせるようプログラミングを施す。MAMAは何百年も同じクローンを育てていったのだが、とうとう月から人類が帰還することは無かった。
時は流れ、「再定義」後の世界。荒廃した世界を行くラリベルタとスペランツァ。やっとのことで研究施設に辿り着く。ラリベルタの修繕は出来たものの、空気を清浄化するような装置はない。しかし、研究施設に残されていた資料から、数百年前に存在した研究者・タイレルとマドカのことを知り、その二人が形を変えて今ここにいるという事実に二人は気づく。人と人との愛が、クローンとアンドロイドに置き換わった今、そこに二人の意思はあるのか、真の愛の気持ちはあるのか、一瞬悩む二人であったが、結局この荒廃した世界でお互いがお互い会えたという奇跡を大事にし、過去の二人のことを尊重しつつも、何があってもそれはラリベルタとスペランツァという二人の関係なのだ、と納得する。気づくとスペランツァのマスクの交換時間である12時間を過ぎていたが、体に異常は見られない。ラリベルタは再起動した当初、リスが辺りに生息していたことを思い出し、人類のいなくなって数百年たったこの世界は、自然の力でとっくに空気は清浄化していたのだと理解する。そして、これならきっと海も綺麗になっているだろうと、二人で海への道を歩んでいく…。
・解説
こんな感じでどうだろうか。前の方で「スペランツァはタイレルのクローンである」なんて定義付けしておきながら、ちゃっかりマドカの要素も入っていたりとめちゃくちゃなのだが、まぁ直すのも面倒なのでそのへんはなあなあで。
ラリベルタはマドカの家のアンドロイドではないかということにした。「再定義」で1コマだけ「お嬢様の13回目の誕生日を祝う」記憶の回想シーンがありますが、そこの登場人物の服装が「継ぎ接ぎ」で見られる研究員と同じものであることや、「サプライズのプレゼント」に喜んだお嬢様と、(恐らくタイレルの誕生日に)苺のケーキをプレゼントするマドカが重なる(気がする)ので、まぁ繋がらなくはないのかなと。回想でプレゼントを渡す父親の髪色から、マドカの父親はタイレルが定例会議で話していたおっさんと同一人物かもしれない。
あとやはり悩んだのは、人類が滅亡して数百年経っているのに、どうして「再定義」の世界にクローンのタイレルが生きているのだろうか、という所である。クローンなのだから普通に人と同じように成長し、寿命を迎えるはずなのだから、この段階でMAMAは「再定義」の数年前にクローンを新たに育成したことになる。それをする意味だとか、まぁその辺も無理やりこじつけた感じで予想したけれど、実際のところはどうなのだろうか、自分でも気になっている。
さて、本作のテーマは「人同士の百合は、中身をそのままにアンドロイドとクローンに置き換えても同じ形で存続・成立するのか」だと思った。特に本作の場合だと「継ぎ接ぎ」において思い出は数年分しか移植されない、と明言されているので、根っこの部分は同じでも、そこから派生する様々な人格とオリジナルの違いは必ず出てくるだろう。そう思えば、リベラルタとスペランツァの百合はタイレルとマドカの百合の可能性の1つであり、我々はその可能性の一端のみを垣間見ているだけということになり、また違った展開が考えられるという所は面白い。また、荒廃した世界で2人だけ存在する場合、その2人の関係を百合と定義していいのか、という問題に対しても、そもそも「百合」的な状態のタイレルとマドカを基に2人を作ることで、終末・SF・百合という3要素を自然に融合することに成功している。「継ぎ接ぎ」の表紙では本作を「百合SF」と紹介しているが、もはや「SF百合」といっても差し支えないほどに、クセの強い要素の中に百合をしっかりと混ぜ、しかも中心に据えた作品であると思う。まぁこの辺私の予想ありきで書いているので間違ってるかもしれんけど。
・あとがき
最後になったが、最近某クイズ集団の影響でフィリップ・K・ディックの小説を読んだ。その後で、タイレルという名前は彼の作品の一つ「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」が映画化された「ブレードランナー」という作品の中で、人造人間の開発者の名前から来ているのだなぁ、と気づいた。本作もその辺りの影響を受けているのだろうか。ちなみに彼の小説の内容から本考察は結構影響を受けている。だからなんだという話だが。
ぎりぎり次号が出る前に出せて良かったです。しかし約7500字書いてるのに内容としては2000字レベルなんだよなぁ…。というわけで、ここまで読んでいただいてありがとうございました。