徳の低い自分を否定しない
幼稚園の時、祖母が布団に一緒に入って、「ねんねんころり」を歌ってくれた。歌いながら私の腕をやさしく、ぽんぽんと叩いていたが、幼い私は祖母のその一連の行動を、強く「むり」だと思った。気持ちが悪かった。
名前に「ゆう」の文字が入っている私は、LINEなどでよく「優」の漢字を勝手に当てられる。本当は、「優」ではなく、「勇」だ。どうやら私は、周りから優しいと思われているらしい。だから、そう思ってくれている人たちがもし私の心を覗くことがあれば、きっと驚くだろう。人にほとんど興味がないし、心の中でひどいことを思っていたりするからだ。
人付き合いがきらいなわけではない。しかし人といるときも興味のベクトルはほぼ常に自分に向いている。私は今何を感じているのか、なぜ私は今違和感を持ったのか、私はどうすればあの人に認めてもらえるのか、etc。私には人のことを考える余裕がない。
高校の頃、クラスでも少し人気のある女子と付き合っていた。その子のことは、付き合う前が一番好きで、いざ付き合えそうと分かった頃には、すでに私の関心は別の事柄に移っていた。しかし、せっかく人気のある子と付き合える機会なので、と最終的には思い、交際をはじめた。
お互い、ほとんどのことが初めてだった。初めてキスをした時、彼女は少し照れていた。一方で私は、ファーストキスをそこまで好きでない人にあげてしまったことを内心虚しく思い、またそんなことを思う自分の身勝手さに傷ついた。
これまで一番近く私のことを見てきた存在として、私は、私を徳の低い人間であると思う。あるいは、性格が良くないとか、そういうことばの方が適切かもしれない。
そういう気質を持った自分が「むり」だと感じることは、何度かあった。もっとやさしくなれればいいのにと思っていた。
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何か分かりやすいターニングポイントがあったわけではないが、ここ2年で徳の低い自分を受け入れられるようになってきた。自然と人に興味を持てないのであれば、それならそれでいい。自分の声に耳を傾けるのも、大切なこと。
あるいは気が向いたなら、目の前の相手の話をていねいに聞き、相手を信じることをがんばってみても、いい。
何をしても、何をどう感じても、本当にいいんだ。全てくるめて私は私であり、それだけで祝福すべきことなんだ、ということが、最近手触り感を持って分かり始めた。
徳の低い自分にもやさしくできるようになってから、少しずつ、私の中に人にやさしくする余裕が生まれている。
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