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ザックリだけど…俺の映画史

【ザックリな俺の映画史】

幼少の頃、年に2〜3回ほど母に連れられ地元の映画館マウント劇場で上映されていた東映まんがまつりや怪獣映画を観るのが楽しみだった。俺の映画史の始まり。

中学の時には正月や夏休みにトラック野郎や寅さんを観に行く傍らボストンバッグにカレットテレコを忍ばせて友達と中央劇場にピンク映画を観に行きコッソリ録音したりした。今考えるとよく坊主頭の私たちを入れてくれたものだし録音とか重罪じゃないか…そしてタバコも覚える。昭和の映画館は喫煙なんて当たり前だったから劇場内は煙がモクモクしてた。

高校の時には悪友と授業をサボってロッキー3を観に行った。沼津の地下にあった劇場に学生服のまま日活ロマンポルノ3本立てをオールナイトで観てたらその手の方々に声を掛けられた。それなりに不良を気取ってたけどそんな俺でもめっちゃ怖かった(笑)

80年代…カルトムービーとやらがサブカルの世界を覆い尽くした。地方に住む20代前半だった私にもその波が押し寄せあっという間に飲み込まれた。情報源は月刊誌の宝島だった。1986年7月号の宝島に「カルト映画特集」が組まれ、これを読んだ私の人生は大きく変わった。この頃から“毎日1本は必ず観る。観られない日は次の日に2本観て年間365本は必ず観る”ということを義務づけ3年ほど続けた。同時期に五反田や新宿の劇場にも足を伸ばした。渋谷のユーロスペースで『エル・トポ』を観て脳汁ドバドバになった。上質な芸術作品もたくさんあったけどクソみてぇなZ級映画もカルトムービーに仕立て上げられ退屈な映画も観るハメになる拷問のような日々が続き3年を過ぎた頃に映画から離れた。

90年代、30代だった私自身が迷走しており映画はおろか、あんなに好きだった音楽からも離れていた。暗黒時代到来。

40歳になりずっと勤めていた会社を円満退職。家庭生活では離婚もして降って湧いたようにライブハウスをはじめる。音楽も映画も完全復活。50代になり急加速。新しく店を移転した時に将来を見据えて150インチの大きなスクーンを仕込んでおいたのだ。更にシアターシステムを充実させた自分のライブハウスで自主上映も始める。今ではちょっとしたミニシアターのような空間が確立されている。私は毎日ここで映画を観ているわけだ。

一昨年には脳出血を患い、あまりにも退屈な入院生活でサブスクというシステムがあることを知りアマプラ、U-NEXT、huruらを契約してリハビリの合間に毎日3〜4本の映画を観ていた。

言葉を喋ることもままならなかったし脳みその回転も鈍っていたからリハビリがてら観た映画のレビューを書き込んでみようと思い立ち、Filmarksを始めた。

私の映画評には かなりの割合で個人史も含むし「映画は素晴らしいもの」という池波正太郎先生の本による刷り込みがあるため滅多に批判的な文章は書かない。なので他人が読んでも退屈な記事なのだろう。「いいね」も少ない。でもそれでいいのだ。私のレビューもどきを読んで少しでも映画に興味を持ってくれたら嬉しいし気になって観てくれたなら最高なんだ。

映画友達を探そうとInstagramにも同じ文章を載せてみた。今ではライフワークになっているし生きている証のようにもなっているが、このリハビリのおかげで文章も書き込めるようになったし、それなりに喋ることもできるようになった今、もう少し文章を簡略化しようとも思っている。

還暦を迎えて「あと何本の映画をみることができるだろう?」なんて思いながら仕事と仕事の長い合間に毎日映画を観ながら楽しい日々を送っている。

年に数えるほどしかなかった休肝日…毎日のように大量の酒を呑んでいたけど劇場に行く日は休肝日にするようにしてから採血の結果が驚くほど改善されている。私の劇場通いには健康管理の意味も含まれている。

でも観ても観ても皆んなの話についていけないや。映画って限りなく青天井だよね。

たくさんの人の人生やあちこちの地球の風景を見せてくれたり素晴らしい音楽に出会わせてくれたり映画には私の人生に欠けているピースを埋めてくれる不思議な魔力がある。総合芸術である映画は娯楽という域を超えて神様が俺に与えてくれた心の栄養であり健康の源なんだ。

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