修正中※自分がいなくなっても残るもの、を残したい。
「もし、今日死んでも後悔しないように生きたい」という願い
社会人になってからだろうか。
もし、今日死んでも後悔しないように生きたい。
そのことを特に意識するようになった。
大前提....
私は「今日、死ぬ」なんてまっぴらごめんである。
まだ26歳。
知りたいことも沢山あるし
やりたいことも沢山ある。
とにかくとにかく、まだ死にたくない。
しかしながら、いくら嫌だと願っても
人はみないつか、平等に死ぬ。
そして、その「いつか」が「いつ来るか?」は
誰にも分からないのである。
悲しいけれど、誰も文句を言えないし
文句を言っても変わらない事実。
そう考えると、ひとりの人間としての私は
「今日、もし死んでも後悔しないように生きよう」
つまりは、毎日
「今日、生きていてよかった...」
と思えるように
生きることしかできないのだ、
と考えるようになった。
影山さんは、焚き火のような方でした。
そんなこと思い出すきっかけになったのか
11/5(火)文章で生きるゼミの第4回で開かれた
影山知明さんの講義だった。
「ゆっくり、いそげ」の著者で
クルミドコーヒー代表の方。
素敵な方すぎて、短い文で紹介したくないので
もし「ゆっくり、いそげ」という言葉にピンとくる方がいたら、まずは本の目次をみてみてほしい。
1時間半の講義を受ける中。
わたしは3年ぶりくらいに
「うわぁ、わたしこんな大人になりたい」
と感じていた。
静かなる興奮が、確かにあった。
なんというか感覚的ではあるが
影山さんは、焚き火のような方だったのだ。
わかりやすく燃えているのではなく、
芯からじんわりとパチパチ燃え続けている。
あたたかくて、心地よい。
いま振り返ると
ゼミ終わりにみんなで集まっていたときは、
本当に焚き火を囲んでいるような暖かさがあった。
講座を運営している
仕事百貨さんが企画している
「かこむ仕事百貨」というイベントの呼びかけで
「人は焚き火を囲むと、
普段お酒の席でも話せないようか本音をぽろっと話してしまうのではないか」
という事が書いてあって
「たしかにそうかもな〜」と思った経験が
あった気がするけれど...
ゼミ後に設けてもらった
数人のゼミ生の影山さんとで談話する時間は
まさに焚き火を囲むような時間に感じた。
自分は人からどう見られているか
分からないけれど、
割と周囲のバランスを見ながら
コミュニケーションをとる人間である。
場の空気を読みながら
あえて突っ込んだ発言をしたり
場が盛り上がってきたら俯瞰側に行ったり
もちろんいつもうまく行くことはないけれど
頭で考えてから行動しているので、
本当に何も気にせず、衝動的にコミュニケーションをとる機会はかなり少ない。
けれど影山さんと話したい時間は
「この人がつくってくださるこの場なら
とにかく自分が感じたことを素直に言っても大丈夫だな。」
と感じたから、普段だったら言わない判断をするようなことも、ついつい話してしまった。
そして「焚き火」のあたたかさや確かな熱は
周りをじわじわあたためるのはもちろん
焚き火自体も「持続する」と思うから。
その点でも影山さんは、やっぱり焚き火のような人だなぁと感じた。
フロック型とフロー型
そんな影山さんの講義の中で
「フロー型」の生き方、「ストック型」の生き方
の話があった。
ドイツの作家ミヒャイルヘンデの名作「モモ」。
時間泥棒が、
世の中の人の時間を奪うのだが、
なぜかモモの時間は奪えない。
同じゼミ生の谷さんが、
感想で残していた表現をお借りすると
「フロー的」に生きている人は
「その瞬間、その瞬間に集中していまを生きている人」
「ストック的」に生きている人は
「過去/現在/未来に気を取られて生きてる人」
と仮置きできる。
「私は、いまどう生きているか?」というと、
どちらかというと「フロー的」に生きてきると思う。
それはそう生きたいと言葉にはせずとも
心の中でその願いを持ち続けて生きてきたからということもあるし
特に、去年の12月出会った吉本ばななさんの
「大人になるってどんなこと」という本に出会ったからである。
その本の第6章(たぶん)
「人はなんのために生まれたのか?」にあった
「では、人はなんのために生まれたのか?」
「人はみな、それぞれを極めると
なぜか必ず他の人の役に立つようになっています。」
その感覚を後押しされたからである。
この「自分を極める」という言葉に、
その感覚を後押しされた。
ものすごい安心感と
言葉にしきれない納得感というか...
「あぁ、本当にそうだな」と、
25歳にして悟ったような気持ちになった。
とにかく「いまの自分」を、「直感」を信じて
毎日過ごしたいと思うようになったのである。
もちろんフロー的に生きているといっても
全部ではない。
26歳、まだ知らないこと・経験したことないことが沢山ある。
毎日自炊をできたらいいのだけれど、
外食もしなきゃいけなくて、節約のために
「すき家」や「吉野家」にお世話になる日もあるし。
美味しいコーヒー屋さんに行ってゆったりできる日もあれば、お金がないからマクドナルドに行って150円の紅茶で4時間居座るときもある。
でも、すでに
「フロー的に生きていきたい」と願っているから
すこしずつ、その方向に舵を切って進んでいる気がする。
そう考えたとき
フロー的な生き方に近づいていることは
私にとって嬉しいことのはずなのだけれど、
ひとつだけ不安になってしまったことがあった。
それが
「死ぬこと」である。
いい意味でも悪い意味でもなく、
フラットな意味なのだけれどまた
「会社に勤めながらストック型で生きていた私」
の方が、
「もしかしたら今日死ぬかもしれないですよ」
という、
人間全てに突きつけられる感覚に対して
怖さが少なかった気がする。
多分、自分でリストアップしたことを消していく感覚で
「今日はこれをできた」と本当に積み重ねるようにものごとを捉えていたからだと思う。
自分がいなくなっても残るものを残したい。
そう思ったとき気になることがひとつあった。
ゼミが終わったあと、7-8人で
影山さんを囲んでお話を聞いている中、
誰かの質問に対して影山さんがポツリと
「でも...究極、僕はもし今日死ぬということになっても大きな後悔しないですかね」と言っていたことである。
言葉が正確ではないし
「いま」の影山さんがどう感じて考えているか?は
分からないけれど
そのときの影山さんは、確かそう言っていたと思う。
そう思ったときに
「私も頭では、
今日死んだとしても悔いなかったと思いたいと思っているけれど...少なくとも私が今日死ぬのが心の底から嫌な理由ってなんだろう?影山さんと私の感じ方の違いってなんなのだろう?」
と、考えた。
年齢?経験?覚悟?
いろいろ考えたのだけれど、
昨日、街を散歩している中でハッと気づいた。
私が今日死ぬのが本当に嫌な理由は
まだ私が世の中に対して、
何も残していないからだと思った。
そして自分は何かを残せそうな気がしているし
残したいのである。
それは文章だって企画だっていいのだけれど、
でも、今日その事実に気がついて
いますぐに「残せるようなもの」ではない気がする。
大・小、影響力の大・小は問わないにせよ
「自分がいなくなったとしても、
この世に自分が存在した証として残り、
続いていくもの」
を残したいのである。
それって人間の「根源的な欲」な気がするけれど
カタチは何にせよ、なんか残したいんだなと思った。
残したいものを1つ1つ丁寧に残す
「そのために今できることはなんだろう?」
と、考えてみた。
それは
例えまだ断片的だとしても
「残したいものを残すこと」
を1つずつ残すことなんじゃないかと思った。
いきなり、
いくらかの人に波及する生態系
を残すことはできないけれど。
今日、自分が祈っていることを文章を残して発信することはできるのである。
今私は
「毎日出しきる」みたいな「毎日一生懸命」
みたいな元気さはもうないし、
同時に
「毎日一生懸命」ではなくて
日々に波がありムラがあるからこそ生まれる
美しいものもあると知っている。
だから、冒頭の結論に戻ってはしまうけれど
毎日誠実に懸命には生きて、
生きることを喜んで、
その結果なにか残したいと感じるのであれば
すこしずつ何かを残してみようと思う。
そして今書いていて気がついたのだけれど、
まだまだ若い中。
過度な資本主義にのみこまれ、
「味わう」のではなく「消費」するように経験することを続け、言い方がキツイかもだけれどストック型で生きて、今日死んでも後悔しない
思っている方が、冷静に怖いなと思ってきた。
なんでこの前までの自分は「後悔しないかも」と思えてしまっていたのだろうか。
感じる時間が極端に少なかったのだろうな...
26歳で、私は世の中にまだ何も残せていない中
悟る訳にはいかない。
うまくいかなくてもやらなきゃ。
「0⇨1」も本当は生態系を継いでいる-
ちょうど影山さんの講義の前。
その日は、神奈川県の小田原で農業×エネルギー産業に関わる1歳上の男の子に、「ソーラーシェアリング」の現場を案内してもらっていた。
文脈は忘れてしまったが、
実際に農地を案内してもらうまでの車内で
互いにやりたいことを話し
「物事の持続可能性」とか「循環性」
についての話題になった時。
彼が、こんなことを教えてくれた。
「例えば、樹齢が何百年という
一本の大木があるとするよね。
それって、すごいことだなぁ。
自分が生まれてもいない歴史の中で、
どんな日も深く根を張って育ってきたんだな。
と、大先輩のように感じるのだけれど、
実はその木が芽を出して生まれる前に、
先にそこに同じくらい何百年も長生きした木が
生きていた可能性が高いんだって。
だから、いま自分たちの目の前にある大木は
実は自分だけでそんなに長く立派にそびえてる訳ではなく、
ひとつ前大木がいて、
木が土にミミズなど微生物たちを呼びよい土を育てて、よい森をつくっていたから、
いま目の前にいる木は、豊かな土壌で
よい循環の中で、生きてるってことなんだよ。
だから、自分からしたら
ゼロから一になってみえるものも
実は、なにかを「引き継いでいる」というのは
往々にあるし、それが自然界のよい循環だと思うんだよね。
という話だった。
かなり目から鱗だった。