正しい日本語=美しい表現ではない
冒頭に申し上げたい。
わたしは決して「正しい日本語を使うこと」を卑下したいわけではない。むしろ、正しい日本語を知っていることは日本人としても人としても素晴らしいことだと思う。無知を知識に変えてきた過程が必ずあるのだから。私だって日本語は好きだから、メールを送るだけなのについ辞書を引いたりネット検索をしたり、最近だとAIに添削してもらったりして安心している。
このタイトルを思いついた背景には、最近感じるイライラが原因にある。「慇懃無礼」という言葉が最近よく頭をよぎって、なぜなのかを追っていくと、「正しい日本語を使っていれば美しい表現をしている、と勘違いしていやしないか?」と思わされることが多々あるからだ。
イライラというと衝動的な怒りというイメージをもつけど、怒りの衝動が何度も何度も湧き上がって、その度に守りたいものが体のどこかにちらついて存在して、許せないという気持ちになる。もはや「義憤」と呼んでいい。いわば、美学から湧き出る反骨精神だと思う。
明らかに拒否権がない状況で「幸いです」を連発するワンパターンなコミュニケーション。「〜してください」のほうが気持ちいいことだってある。
議事録で「〜の時は」と無意識に記載したメンバーに対し、「その場合の「とき」は厳密には平仮名じゃないといけないんですよ〜」とわざわざ指摘。本題が始まった途端にミュートを決め込んで会話には不参加。その指摘はなんのため・・・?一言で言って、その場にいるだけで感じが悪い。
「あなたは教科書に載っている正しい日本語を知らないんですかぁ?」という字幕を暗に表示している自分に気づいているのだろうか。(いや、気付いていないから、そんなことが平気でできるということはわかっている)
ありがとうございます。
お世話になっております。
していただけますと幸いです。
正しい日本語だって、気持ちがこもっていないのなら、言わないほうがいい。美しい日本語を汚された気分になる。
英語なら一言"Thank you."で済むことが日本語では多種多様に相手への感謝と敬意を表現できる。正しいとしても、受け取る相手が気分よくなければ、美しくないということにならないだろうか。
一方的なコミュニケーションでは、AIに引けを取るのも時間の問題。
毎度気分の悪いものではあるけど、わたしは悪意のある美しくない日本語を自分自身への戒めとして、心の片隅で許さずに、しかと見守っていこうとおもう。