"ルール"とは
今回のカフェゼミは、わたしにとって初めての経験だった。たくさんの社会人の方が来てくださり、正直終始緊張しっぱなしで終わった後はドッと疲れが押し寄せた。
わたしが今回の講演を聞いて1番に気になったことはパリのカフェと日本のカフェの大きな違いとして、フランス人と日本人が描くカフェへのイメージの違いがあげられるのではないかということだ。日本人は海外に比べて見ず知らずの他人にあまり関心がないと思う。実際にアメリカのネバダ州にいたときは、スターバックスなどの店員さんはもちろん、通りすがりの人まで「その服可愛いね!」とか「ネックレス素敵だね!」などと身につけているものについて関心を持ってくれていて、気軽に話しかけてくれる。学校の図書館で勉強していても「僕日本語を勉強してるんです!」と見知らぬわたしに声をかけてきて、お互いに母国語を教え合い学び合うという貴重な経験ができた。日本人ももっと見ず知らずの人へ関心を持ち、気軽に話しかけても不自然ではないような文化を持っていたら、カフェに新しい人との出会いを求めて訪れる人も現れるのではないかなと思う。現在、「public placeをどうやって活性化させて、どうやったら人々が外に出たくなるか」世界中で研究されているのに、その中核にカフェがあることには気づかれていない。カフェにはあまり注目がいっていない。カフェに対する日本のイメージは現在は絶対に出会いの場ではないと感じる。もちろん日本人はサードプレイスとしてカフェを利用していると思う。家でも職場でもない必要不可欠な場所としてカフェは存在しているとは思う。プラネタリウムカフェ・こたつカフェ・砂浜カフェなど様々なコンセプトを用意したカフェがInstagramなどのSNSで話題となり注目を集めていて多くの人がそういった話題のカフェに足を運んでいるのは事実だ。しかし、カフェがあることで人々がもっとゆっくりと時を過ごすことができ、滞在する権利と人と繋がることができる可能性を手にできる環境に今の日本のカフェは程遠いと思う。なんとなく、1杯のコーヒーで長居しづらいし、長居できたとしても隣の知らない人と仲良くなって帰る人はほんの一握りいるかいないかだと思う。「カフェは出会いの場である」というイメージを日本にしっかりと植え付けることができれば、パリのようなカフェができると思う。「1杯のコーヒーはカフェへの入場料であって、コーヒー代金ではない。」とおっしゃっていた通りに日本にもこの発想が浸透して欲しいと願う。カフェがルールに縛られてコーヒー1杯で長居させないような、コーヒーを飲むためだけの場所ではなく、人との出会いを求めていけるような空間であって欲しい。
「日本人はルールに忠実すぎる。」この話を聞いた時にわたしもこのように感じることは多々あるなと思った。先日スターバックスでフラペチーノを購入したとき、アルバイトであろうわたしと同じくらいの女の子がクリームをのせたところにふたを落としてしまい、クリームの形が変形してしまった。わたしは味は変わらないし、変形していてもなんら問題ないと思うのだが、その方はすぐに作り直そうとクリームを全て捨てようとした。わたしは慌ててそのままで大丈夫ということを伝えて作り直さず受け取った。きっと作り直すようにルールがあるのだろう。一方でアメリカネバダ州でのスターバックスではフラペチーノのクリームを店員が誤ってのせすぎたせいで蓋からクリームが溢れ出してしまっていた。それでも店員さんはペロっと舌を出し、ウィンクをしてそのままの状態でわたしにクリームの溢れかえったフラペチーノを差し出してきた。全然悪い気はしなかった。むしろ生クリームが大好きなわたしにとってはラッキーだった。ルールに従えば簡単だ思う。でもだからってルールに縛られすぎてたら新しい発想なんて生まれないし、考えるんじゃなくて従うだけの頭になる。だけどある程度ルールがないと世の中は崩壊しちゃう。ルールは必要だけど従いすぎは絶対よくない。でも秩序を保つためにルールは必要って無限に頭がループしてしまう。ルールとはなにか。きっとなくてはならないものなんだろうけど、でもルールに縛られすぎることは絶対に良くないことである。ルールを鵜呑みにするのではなく、きちんと考えて動くことこそが大切なのだという気がする。ルールだけではなくきちんと考えて、臨機応変に行動できる人になりたい。そして、もっと他人に関心を持ち、色んな人と積極的に関わって色んなことを学びたいなと思った。