言葉の「意志」を考えられる人になる。
「なにかが言語化された時の感覚」がとても好きだ。
それは短い言葉でもいいし、文章でもいい。
なんとなく感じていたことをずばりと言い表してくれる言葉に出会えると、感動をおぼえる。
自分の頭の中でだけ、ふわふわと存在していたものが、くっきりとした形になる。
それは自分でそのものごとを意識できるということだし、人に伝えることができるということでもある。
短歌を読んでいると、その感動に出会えることが多い。
わたしの好きな短歌のひとつがこれだ。
「もういやだ死にたい そしてほとぼりが冷めたあたりで生き返りたい」
岡野大嗣さんの短歌。
初めて見たときは衝撃的だった。
何もかもが嫌になって、生きるのがめんどくさくなって、「なんかもう死にたいなあ」みたいなことをふと思っちゃった経験って、わりと誰にでもあると思う。
でもほんとうにそう思っているわけでは全くなくて、下の句がその気持ちを絶妙に言い表している。
そう、ちょっとだけ、逃げたいだけなんだ。なんとかなりそうだと思えたら、帰ってくるから、いまだけは。
この短歌はそんな気持ちを形にしてくれていて、肯定してくれているような気がする。
この短歌があるから、ああ自分はこんな心境だなって認識できるし、ほとぼりが冷めたらがんばろうと思える。
自分の中の靄でしかなかったものが、言葉を与えられて自分を鼓舞する材料になる。これってすごいことだと思う。
***
「言葉の企画」第3回の課題は、身の回りの事象に名前をつけよう、というものだった。
ふだんの生活の中で、この場面がおもしろいな、素敵だな、伝えられたら楽しいな、と思うことはよくあるし、逆に嫌なこと、気をつけるべきだと言いたいこともたくさんある。
自宅から駅に着くまでに信号が4つほどあり、1つも引っかからずに自転車ですいすい進んで行けた日は、すごくラッキーな気がするとか。
新幹線に乗っていて、なんの遠慮もなく堂々と肘掛を使って隣の人を縮こまらせるのはやめてほしいとか(今日の話)。
でも事象を名付けるとなると、そもそもうまく名付けられるか、そして名付ける意義はなにか、と考える必要が出てくる。
前者のテクニック的なものは、講義でしっかり解説してもらえたし、とても勉強になった。
(ほかの企画生のnoteを見れば、詳しく書いてあるよ。)
後者の名付ける意義についても、阿部さんは冒頭と、さらに最後に触れてくれた。
いまはモノも、言葉も大量に世の中にあふれているからその言葉の「意志」が大事になる。
なんでその言葉を使うのか。どんなメッセージがあるのか。伝えたいことがあるから、名前をつける。
そして誰かの悪口を言うためになってはいないか。対象に敬意を払えているか。
名付けとは、生命力を与えること。
これはずっと考え続けなくてはいけないテーマだと思う。
言葉というものは、とても強い。
先に挙げた短歌のように、人を勇気づけることもできれば、人を落ち込ませる力もある。
ツイッター巡回はわたしの趣味のひとつである。でもここ最近のツイッターは罵詈雑言、相手の揚げ足取り、正義の皮を被った誹謗中傷、マウンティング、そんなのばっかり。
発言力のある人や社会的話題の多い人をたくさんフォローしているからかもしれないけれど......。
政治的な話題とか、フェニミズムの話題をウォッチしていると、悲しい気持ちになることもしばしば。
わたしが言われたわけではなくても、静かに傷付くこともあるんだなぁ、と思う。
その言葉は、誰のためになっているんだろう?
言葉の力を自覚して、紡いでいける人になりたいものだよ。
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