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父が繋いでくれた母の命



ー父は62歳でこの世を去った。

7年前、私は大学を卒業して実家を離れ1人暮らしをしていたが、実家から1時間もかからない距離でいつでも帰ろうと思えば帰れる環境に住んでいた。

週末に実家に帰ると料理好きの父はご飯を作って待っていてくれてそれが「当たり前」になっていた。
寡黙な父とは会話も少なく、父はご飯を食べるか食べないか聞くこともせずいつもご飯を作って待っていた。

この「当たり前」が続くこともなく、父は突然意識不明になった。


―深夜に母からの電話。
こんな時間に母からの電話は嫌な予感がして、恐る恐る電話を取った。

「お父さんが病院に運ばれたから病院に来て。」

小学校の教員でもあるいつでも冷静な母の声。

私は、急いで病院へ向かった。
この時、気が動転するという言葉を初めて体験したかもしれない。ブレーキを踏む足が震え「大丈夫、大丈夫。」と言い聞かせながら、早く病院に着きたい気持ちと怖くて着いてほしくない気持ちが入り混じり複雑な心境のまま病院に到着。

母は待合室で憔悴していた。その場にいた姉から事情を聞いて、その不穏の空気で父が大変な状況だと悟った。


その日から、父は植物状態に。

食べ物をのどに詰まらせたことによる窒息で低酸素状態となっていた。心肺蘇生、低体温療法を試みるも意識が回復することはなかった。もっと早く気がつけば意識がなくなることはなかったと思う気持ちとあと一歩遅ければ、死に至っていたと思う不幸中の幸いが入り混じり複雑な心境だった。


医師には、長期戦になると言われたけど家族全員、父は絶対に目を覚ますと信じていた。

好きな食べ物やたばこ、お酒を手に握らせたり、香りをかがせたり、音楽を聞かせたり、常に呼び掛けたりできることは何でもやった。

父の名前を呼んだり、こんなに近くに寄り添ったりしたのはいつぶりだろう。。


植物状態の人は、認識、思考、意識的な行動をする能力は失われると聞いていた。しかし、呼吸もするし、消化機能は正常なので目を閉じているときの父は本当に眠っているようだった。

ー1週間が過ぎ、1カ月が過ぎ、3か月が過ぎ、、このままどうなっていくのだろうという1日1日が過ぎていく恐怖と、目が覚めたら伝えたい言葉ばかりが溢れてきて何もできない日々に涙が止まらなかった。

よくドキュメンタリー番組で数カ月、何年も眠っていた人が目覚めたと聞いたことがあるが本当に“奇跡”なんだと。


1年以上も寝たきりで、食事もとれず、身動きの取れない父は筋肉が落ち、痩せ細って、体も硬直していて意識が戻ってもまともに歩くことができないだろうと家族全員が感じていた。


それと共に、医師に言われた「長期戦」の意味がやっと理解できた。

リハビリの先生や病院のスタッフさんたちは一生懸命、父の世話をしてくれ、私たちを励ましてくれた。

私が住んでいるアパートによく父が遊びに来る夢をみた。夢なのか現実なのかよくわからないが金縛りのようなものだった。

遊びに来るというよりも、眠っている私の様子をそっと見にくるような感じ。


父は、何度も家族を呼び集めた。

というのも、延命治療(胃瘻=おなかに開けた穴にチューブを通し、胃に食べ物を流し込む方法)をするかしないか。の決断を家族で話し合ってほしい。そういわれている気がした。

少なくとも私が生まれてから27年間、家族全員が集まって話すことは一度もありませんでした。
父はそれを望んでいたかのように家族を呼び集めた。

私たちの思いは、元気に帰ってきてほしいという思いだけだった。

人に迷惑をかけたくない父の性格を知っている母は、

「延命治療をして生き延びてもお父さんは本当に嬉しいのか。」

大好きなお酒も飲めない、お寿司も食べれない、たばこも吸えない、話すこともできない。それが父の幸せなのか。

そう考えた時に、家族の思いは一致した。

ー延命はしないと。


正直、父が「生きたい」のか「死にたい」のか家族の私たちですら答えが分かりません。

もう持たない、最後かもしれない。と言われ5年間静かに生き続けてくれた。私たちの成長をただただ静かに見守るように。


コロナウィルスがまん延し、面会が禁止になりそれでも父は病気をせず頑張って生き続けました。


そしてその時は、突然でした。
優しい父の私たちへの最後の“いじわる”だった。 


2021年の末、母は健康診断で腎臓に手術が必要な腫瘍が見つかった。

母の手術日が決まり、手術前の入院まであと5日に迫った時だった。

また父は、みんなを呼び集めた。
正しくは、母が家族を呼び集めてこう言った。


「お父さんは急性腸閉塞になった。

寝たきりの状態の患者さんがなりやすいと言われている病気らしい。
腸の機能が働かなくなり、栄養も吸収できず、排便もできない状態になり

もういつ亡くなってもおかしくない状態だと。」

私は、
“なんで今なの?お母さんはこれから頑張ろうとしているのに”
と心の中で父を攻めた。


母は今、手術を受けるべきか残された私たちに問いかけた。


しかし、私たちの思いはどちらも元気に生きててほしいそれだけ。
これで母の手術日が伸びて、腫瘍が大きくなってしまったら・・私たちはきっと父を責めるだろう。


私たちは母に「手術頑張って!お父さんにはお母さんの手術が終わるまでもう少し頑張ってもらおう!あとは私たちに任せて」
と、母には予定通り手術を受けることをお願いした。

面会を許された母から送られてきた父の動画は目をぱちぱちさせて、意識が戻ったのか錯覚するような穏やかな表情だった。だから大丈夫だろうと。


12月15日(水)母の入院当日

父の緊急連絡先を母から長女へ変更し、
母を病院へと見送った。

12月19日(日)母、手術前日

父の容態が急変し病院からの電話。面会人数が限られていたため長女、次女の姉2人は急いで病院へと向かった。

その時の父の病状は悪化しており、息を荒くして苦しそうにもがいていた。

姉2人はその姿を見て
“母の手術まで乗り切って欲しいけれど、
もう頑張らなくていいよ。”
そう伝えた。

父は5年間も1人で病院で一生懸命生きてきた。好きなことが出来るわけでもなく、美味しいものも食べられない、会話もできない植物状態で。誰にも迷惑もかけずに静かに生き続けてきた。

“もう、充分頑張ったよね。”

そう思うしかなかった。


ー12月20日(月)母、手術当日

その時が来た。

姉2人が母の手術を待機している間に、私と弟は14時に面会予約をするため家で待機をしていた。

すると、13時40分頃に次女から一本の電話。

「急いで病院に向かって!お父さんがもうダメみたい!!早く!」

いつも冷静な姉の声に動揺しながら、もう本当に無理なんだと悟った。弟と病院へ向かう車内で涙を堪えながら、大丈夫。と自分に言い聞かせ、緊張で震える足で病院へ向かった。


長女はすでに病室に着いていて、受付に着くと

「父が危篤なので病室へ上がらせてください!!」

と言うと、

まるでAIのように無表情の受付スタッフが

「面会の人数が2人に制限されているので、どちらが先に上がりますか?感染症対策のチェックシートを書いてお待ちください」

早く父に会いたかった私たちは、チェックシートを書きながらもう一度伝えた。

「危篤なので今すぐ上がらせてください!」

というと病棟スタッフに確認しますと内線で病棟へ電話を繋いだ。

後から着いた次女は、息を荒げて走ってきて

「今すぐ上がらせて!!」

と強引に長男の手を引いて、走ってエレベーターへ誘導した。


私と長男は、父の最期に間に合わなかった。最期の面会すら叶わなかった。


父は、長女に見守られ安らかに天国へ旅立った。

面会予約時間の5分前だった。

もっと早く来てあげれたら…よかった。
その時は胸が締め付けられる思いでいっぱい。



母の手術中に亡くなった父は、まるで

“お母さんのことをよろしく頼んだよ”

と言っているようだった。


私たちにとっては、最後になんでこんなに意地悪するの?と。


ー母の手術は成功。

病院から一本の電話。手術が成功した嬉しさと父が亡くなった悲しみが入り混じり複雑な思いが込み上げて涙が止まらなかった。


手術後の母に、父の死を伝えることができなかった。

父が亡くなって2日後に長女から母の面会で父の死を伝えた。

“なんで、なんでこんなことになるの?”
と号泣していた。

母が最後に会ったときはとっても安らかな表情だった父。
きっと母には辛い姿を見せたくなかった父の最後の強がりなんだと思った。

まるで父が自ら選んだ最期のようだった。

母にタスキのように繋がれた父の命。
最後まで家族思いの父に私はこう伝えたい。



“私は父の娘に生まれてとっても幸せです。”
 

父は最後まで好きなことをして、家族にも恵まれて幸せだったかな。

人には必ず死が訪れます。
それが、今日なのか明日なのか、10年先なのか誰にもわかりません。
だからこそ、伝えたい思いがあるのなら今すぐに伝えて欲しい。


今身近にいる家族が「当たり前」の存在と思うのなら、当たり前の分だけ感謝や思いを伝えてほしい。


私は死ぬまで後悔し続ける。
父と話したい、
お酒を嗜みたい、
一緒にゴルフを回りたい、
結婚式にも呼びたかった、
孫も見せてあげられなかった。


最後に
"ありがとう"
と伝えたい。

by かのりな


#創作大賞2024  

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