『星美くんのプロデュース』梅雨SS
『そんなに好きじゃない、でも嫌じゃない』
雨の休日はあまり気分が上がらない。せっかく可愛くメイクができても湿気でヨレると最悪だし、オシャレをして出かけても服やバッグが濡れると嫌だから無意識のうちに傘の下で体を縮めてしまう。
けれど、今日は窓越しの梅雨空を眺めても不思議と嫌な気分にはならなかった。
メイクがヨレないように、洗顔の後にはしっかりと保湿をしてから油分をティッシュオフする。それから下地、ファンデーションは厚塗りすると崩れやすいから薄く塗る。梅雨時は特にベースメイクが大事なのだ。
いつもより丁寧にベースメイクを終えたら眉を整え、アイシャドウとチークとリップは、これから訪れる夏を予感させるようなトレンドのオレンジ系のワントーンで仕上げる。
ミルクティーベージュのロングヘアのウィッグはポニーテールにして、最後に鏡に向かって笑顔の確認。
「うん、今日も可愛いっ」
「……何それ、自己暗示?」
「うわっ、姉ちゃん⁉︎ 部屋入る時はノックしてよ!」
いつの間にか部屋の扉が開いていて、その隙間から姉の一希が引き気味の顔を覗かせていた。なんでいつも一旦覗くんだ?
「いやしたけど、なんか次郎が自分に見惚れて気づかなかったみたいだから」
「人をそんな水面に映った自分の顔に恋をして死んだギリシャ神話のナルキッソスみたいに言うな!」
「何その浮ついた突っ込み。あ、今日あれか、心寧ちゃんとどっか行くんだ?」
「え、うん。一緒に服見に行こう、って約束してて」
「だから機嫌いいのか。ホントに仲良しだねー、あんたたち」
「そりゃあ、女装を隠さずにいられる初めての友だちだし」
どこか生温かい視線を向けてくる一希にそう言うと、彼女は呆れたような吐息を一つ。
「……友だち、ねぇ」
「え、なに?」
「いや別に、本人たちがそう言うならいいんだけど」
「言いたいことあるなら言いなよ」
「いやいや、私が口出しするようなことじゃないし」
いやに持って回った姉の口ぶりに苦言を呈するも、彼女ははぐらかすばかりで。わざわざ何をしにきたんだ?
「というか姉ちゃん、用がないなら出てってくれる? これから着替えるし」
「用もないのに弟の部屋になんかくるわけないだろ!」
「じゃあさっさと用件を言えよ!」
無駄に偉そうなんだよ、この姉は!
「いや別にそんな大したことじゃないんだけど」
寝癖の付いたウルフカットをぐしゃぐしゃとやりながら、姉はつまらなそうに言う。
「なんか、家の前に不審者がいるんだよね」
「大したことすぎる!」
下手したら普通に通報案件だった。もっと危機感を持て!
*
「不審者ってどこにいるの?」
「さっき出かけようとしたら、向こうの電柱の陰から誰かがこっち見てるのが見えて。すぐに電柱の陰に完全に隠れちゃったんだけど、まだいるにはいるっぽいんだよね」
「顔は見なかったの?」
「一瞬だったからあんま見えなくてさー」
「あれじゃない、姉ちゃん外では色んな女子にいい顔してるから、勘違いした子が家にまできちゃったとか」
「いやいや、私はそういうタイプはうまくあしらうし。むしろ私はあんたのストーカー説を推すね。あんたみたいなふわふわした可愛らしい見た目の女子ってストーカー気質の拗らせた奴に狙われやすそうじゃん」
「ボクは男だけどね」
玄関扉の前の狭い空間でわちゃわちゃ言い合いながらドアスコープを覗くも、小さな視界には件の不審者の姿は映らない。
「……うーん、ここにいても見えないし、ボクがちょっと外に出て確かめてこようか」
「えっ、大丈夫? もしホントにあんたのストーカーだったらどうすんの? 街で見つけた可愛い子を尾けて家を特定して物陰から観察するようなヤバい人間ってことだよ?」
「うっ、なんでそんなわざわざ気味悪い言い方するんだよ! ボクだって近づきたくないけど、ずっと家の近くにいられるのも嫌だし――」
一希に抗議している時、ふいにボクは差し迫った危機を思い出した。
「――っていうか心寧!」
「え、なに?」
「今日、心寧と一緒に出かけるって言ったじゃん! その前に一旦家にくることになってて! あぁぁもうすぐ約束の時間だし、このままじゃ心寧が不審者と鉢合わせちゃうかも!」
「それは確かに危ないか……よし、行け次郎! 骨は拾ってやるから!」
「ボク死ぬの⁉︎」
姉の雑なフォローを背中に受けつつ、ボクは恐る恐る玄関の扉を開ける。
灰色の空からは傘を差すほどではない程度の霧雨。じっとりと肌に張り付くような不快感に負けないよう、ボクは勢いよく扉の陰から飛び出した。
想定外の動きだったのか、前方の電柱の陰から慌てたように人影がまろび出てくる。こちらに向けて、ではなく反対方向に逃げる動きに勇気づけられ、ボクは一気に不審者との距離を詰めた。
「ちょっと! そこの不審者――」
「ぅぇえ⁉︎」
「――って、あれ⁉︎」
近くまで詰め寄り牽制するように大きな声を出したボクに、その人影はひどく情けない悲鳴を上げた。
「こ、心寧⁉︎」
そこにいたのは不審者ではなく――いや、電柱に隠れていた事実は間違いなく不審だけれど――心寧だった。怯えたように頭を抱え、へっぴり腰になっている。
「きゅ、急に走ってきて大声出すからびっくりしたんですけど……!」
まだ警戒しているのか、頭を抱えたまま少し潤んだ上目遣いでこちらを睨んでくる心寧に、ボクは曖昧な笑みを向ける。
「いや、ごめん……電柱の陰から家を覗いてる不審者がいる、って姉ちゃんが言ってて……もしかして心寧、ずっとここにいたの?」
ボクの問いかけに、彼女はなぜかバツの悪そうな顔をした。
「あ、えっと、その、約束の時間よりちょっと早いなー、って思って……」
「別にいいのに! ちょっとだけど雨も降ってるから濡れたんじゃない? 早く家の中入りなよ!」
そう言って腕を引こうとすると、心寧は「ひっ」と小さな悲鳴を上げて後ずさる。えっ、なんで……?
唐突な拒絶にショックを受けていると、心寧は頭を抱えたまま慌てたように言い募る。
「ぁっ、今のは星美くんが嫌なわけじゃなくて、そうじゃなくてその、――――なので……」
後半はなんだかもにゃもにゃと口の中で呟いていたから聞き取れなかった。
「ごめん、なんて?」
「……その、今はちょっと、手が離せないというか」
「手?」
言われて、ボクは気づいた。さっきからずっと、心寧は両手で頭を抱えている。最初は急に出てきたボクにびっくりしたせいかと思ったが、普通に話している今も全然手を下ろす気配がない。
「……なんで?」
「なんで、って……それは、その、――ぁみが……」
「何が?」
「かっ、髪がっ! ぼ、ボサボサで恥ずかしいんですっ……!」
ヤケクソになったみたいに心寧は手をブンブンと動かしながら叫んだ。
「あぁー……」
確かに、押さえを失った彼女のボブカットは湿気であちこちがアホ毛のように跳ねている。
「もしかして、ボサボサの髪の毛見られるのが嫌で電柱に隠れてたの?」
「ぅ、だって……」
目を伏せて口ごもる彼女の耳はほんのりと赤くなっていた。
彼女が気にしているほどひどく崩れているわけではないが、些細な部分が気になってしまう気持ちはわかる。
「全然大丈夫だよ、心寧」
しゅんとした心寧を元気づけようと、ボクはフォローの言葉を探す。
「だってほら、プロデュースする前の心寧はもっとボサボサだったから!」
「急に笑顔で過去の傷を抉ってきました⁉︎」
フォローのつもりがとどめを刺してしまった。ごめん……。
「――というわけで、不審者は心寧でした」
「ふ、不審者呼ばわりやめてください……っ」
心寧を伴って家に戻り報告すると、一希は気の抜けた顔で肩を落とした。
「なぁんだ、心寧ちゃんだったのね。しかも隠れてた理由が変な髪の毛見られたくないからって、可愛いなーもう。それなのに次郎ってば乙女の恥じらいを不審者扱いするなんて」
「いや、最初に不審者って言い出したのは姉ちゃんだからね」
しれっとボクに責任転嫁するな。
*
「――で、最近髪のセットがうまくできない、と」
「は、はい……なんかアイロンとかかけても、時間が経つとうねってきたり、とか……」
リビングのソファーに座りながら、心寧は恥ずかしそうに目を伏せる。話している間も右手はひっきりなしに髪の毛を弄っていて落ち着きがない。
「まぁ梅雨だしねぇ……対処としては普段のヘアケアをいつも以上に丁寧に、ってとこかな。傷んだ髪が湿気を吸収しちゃうのがうねる原因だから、まずしっかりトリートメントでダメージ補修すること! うねりをケアするタイプのやつとかもあるからそれを使うのも良し! で、お風呂上がりに濡れたままの時間が長いとクセが出ちゃうからすぐに乾かすこと! 最後に湿気を吸わないようにヘアオイルとかで仕上げ! 基本だけど毎日のこれを丁寧にやることが大事だよ!」
ボクの説明をふんふんと頷きながら聞いていた心寧だったが、
「普段のケアが大事ってことは、今日はもうボサボサのまま過ごすしかないってこと、ですか……? この髪で出かけるの嫌です……」
くしゃっと髪の毛を握り、俯いてしまう。
ボクだって「なんか決まらないなぁ」って時に出かけたくない気持ちはわかる。でも……。
「……今日一緒に出かけるの、楽しみにしてたんだけどな」
「へっ」
ぽつり、とボクが思わず呟くと心寧はバッと顔を上げた。ほとんど無意識に出た言葉に自分でもびっくりして、慌てて咳払いする。
「えっと、それじゃあ髪の毛がなんとかなればいいんだよね? すぐできる対処としては、ヘアアレンジしちゃうとか! 心寧のボブに似合いそうなアレンジは、っと――あ、ヘアピンとか持ってくるからちょっと待ってて!」
「あ、は、はいっ」
半分逃げるように自分の部屋へ行き、ヘアアレンジに必要なものを持ってリビングへ戻る。
「じゃあ今回はサイドでねじってピンで留めるアレンジにしよっか! これならそんなに難しくないから心寧でもすぐできるよ」
まずヘアオイルをなじませてから耳上のサイドの髪の毛を二段に分け、上段を上向きにねじってピン留めし、下段も同じようにすれば完成だ。
「これでサイドの気になるところは抑えられたから、あとはちょこちょこ浮いてるアホ毛とかはこういうスティックのスタイリング剤で撫でるようにしてー――ん、オッケー!」
全体的に気になる部分をマスカラ型のブラシのスティックで撫で、最後に前髪もちょちょいとセットして心寧に手鏡を渡す。
「どう? これでボサボサ感はなくなったんじゃない?」
いつもは少し重めのグラデボブも、サイドを抑えて耳も出すことで涼しげな印象だ。
「は、はい……! でもいつもと雰囲気違うし、変じゃないですか……?」
「えぇー、似合ってるし可愛いよ?」
鏡越し、不安げにそう問いかけてくる心寧ににっこりと答えると、彼女はきょときょとと視線を泳がせた後、へにゃ、と緩い笑みを浮かべた。
「ありがとうございますっ……ぅへへ」
「髪の毛の問題も解決したし、これで出かけられるね! じゃあボクもすぐに支度してくるから待ってて!」
道具を片付け部屋に戻ろうとしたボクの部屋着の裾が、くい、と遠慮がちに引かれる。
「ん? どうしたの、心寧?」
「や、あの……誤解してほしくなくて……わたしだって星美くんと一緒にお出かけするの、た、楽しみだったので……っ!」
小さく叫ぶように、心寧は言った。じわり、と赤くなる耳たぶを見て、ボクは思わず笑ってしまう。
「……そっか。でも、ボクの方が楽しみだったよ!」
「なっ、わ、わたしだって、すっごい楽しみでしたけどっ……!」
ムキになって言い返してから、心寧はボクと顔を見合わせて吹き出した。
梅雨は髪もうまく決まらないし、濡れると嫌だからそんなに好きじゃない。
けれど、一緒に過ごす相手がいるだけでそんなことも苦ではなくなるのだ。
その相手が今目の前で少し恥ずかしそうに笑う少女でよかった、とボクは思った。
「――いや、これで付き合ってねーのかよ!」
「えぇぇっ⁉︎」
「姉ちゃん⁉︎」
キッチンからこちらを見ていた姉は、飲んでいた麦茶のグラスをダン、と叩きつけながらかーっと叫んだ。なんだこいつ!