このぬくもりを君と呼ぶんだ 番外SS『ロストサマー・ブルース』

 学校の屋上から見上げた空は、珍しく晴れていた。澄んだ青には、小島のような白い雲がぽつりぽつりと浮かんでいる。

「夏だな」

 降り落ちる陽射しに手を翳すと、顔にその分だけ影が落ちた。

 陽を浴びている掌と、陰になった顔と、どちらも感じる温度は変わらないけれど。

 この地下都市では、空の有機ディスプレイに映る天気が晴れだろうと雨だろうと気温はほぼ一定で、人工太陽は本物の熱を降らせはしない。

 だから、どれだけ季節が巡ろうとも、それは多くの人にとってはただの暦の上での区分でしかない。

 今はもう、昔の小説や映画の中にしかない、人々が地上で過ごしていた『夏』とは、言葉は同じでも意味するものがまったく違うのだ。そして、そこに込められた感傷も。

 ――なんて、ぼんやり空を見上げていると、

「隙あり」

 ひやり、と首筋に冷たくて湿ったものが触れた。

「つめたっ。なに?」

 振り返ると、こちらに向かって手を伸ばし、唇を歪める少女の姿。さらりと艶のある黒髪は少し伸びて胸元にかかっている。身長は、あまり伸びていない。成長期が終わったのかも。

「いー反応するねー、レニーちゃんは」

 真っ黒い瞳をくしゃっと細めて、屈託のない悪戯っ子みたいに笑う彼女――トーカの手には、汗をかいたカップのアイスクリームが二つ。

「ほい、あげる」

 と手渡されたそれをまじまじと見つめて、

「……盗品?」
「ちゃんと買ったよ!」

 思わず確認すると、トーカはむくれっ面でどかっと屋上の地べたに座り込んだ。

「スカート汚れるよ」
「別に気にしませーん」

 反抗期みたいなムカつく声で返事をすると、蓋を開けたアイスクリームにスプーンを突き立てた。真っ白なバニラアイスをぐりぐりと掬って、大きく開けた口に放り込む。

 無造作な彼女に倣い、わたしもその隣にお行儀悪く座り込んでアイスクリームを掬う。

「んで、何してたの、レニーちゃん。ボーッと空なんか見上げてさ」
「んー、もう夏だなー、って」

 ぱくり、と口に運んだアイスは、舌の上でひんやりと溶けて消える。

「夏休みまでまだ一ヶ月以上もあるよ」
「いや、休みじゃなくて」
「……? ――あー、なるほどね。季節の方の『夏』ってことか」

 怪訝そうに眉を寄せていたトーカは、得心がいったようにぽん、と手を叩いた。

「そ」

 素っ気なくわたしが頷くと、トーカはからかうような笑みを浮かべる。

「今日び、季節なんて気にするの、レニーちゃんくらいじゃね? 別に何月だろうと天気も気温も変わらないじゃん」
「まぁ、そうなんだけど……」
「なに、煮え切らない反応」

 ばくり、とわたしのよりも大きな一口でアイスを食べるトーカを見ながら、わたしはちょっと思案する。

「でも、これも夏っぽいことじゃない?」
「これって、アイス?」

 ちょん、とスプーンでカップを示すと、トーカは小首を傾げる。その所作は、童顔も相まっていつも以上にあどけなく見える。

「うん。アーカイブにある昔の映画とかで見る夏のイメージ。白くて暑そうな日差しと冷たいアイス、みたいな組み合わせをよく見るなー、って」
「ふーん」

 気のなさそうな相槌を打ってから、トーカは晴れた空に視線を向ける。

「レニーちゃん、今度は失われた地上の夏が恋しいんだ?」

 ロストサマー・ブルーだねぇ、とトーカは真っ黒な瞳に空の青さを映して言った。

「うーん、一度も体験したことがないのに恋しいって言うのも変だけど……でも、昔の映画とか小説とかの中では夏ってなんか感傷的というか……特別感? みたいなのがある気がして」
「失われたものを懐かしがる――一種の幻肢痛みたいなモンかな」

 愉快そうに唇を歪めると、トーカは明るい声を上げる。

「それじゃさ、なんか他にも夏っぽいことやろーぜ、レニーちゃん」
「夏っぽいこと?」
「そ。かつて地上の人々が過ごしていた夏がどんなもんか、実際にやってみればその幻肢痛も治まるかもよ?」
「なんか病気みたいに言うのやめてくんない?」

 と言いながらも、わたしは少しワクワクする。

「じゃあわたし、海行きたい」
「ないじゃん、地下に海は」
「えー……じゃあ、プール?」

 言いながら自分でも「なんか違うなぁ」と思っていると、トーカも微妙な顔をする。

「プールって、じいさんばあさんが健康のために行くやつ? マジ?」
「……やっぱ違うか」

 早くも手詰まりで、恨めしい気持ちで空を見上げる。

 視線の先で、ディスプレイに浮かぶ青空はどこまでも澄んでいて。

 その色彩は、もし昔の人が見たら、地上の頃と同じように感傷を覚えるのだろうか。

「レニーちゃん、もうないの? 夏っぽいこと」
「えー、ちょっと待って……なんか、バカンス?」
「バカンスって、どこ行くの」
「なんか……ビーチとか」
「一生海行きたいじゃん」

 ケタケタと笑うトーカとしばらくダベっていると、手の中でカップのアイスはゆるゆると溶けていく。それを見て、二人して慌ててかき込んだりして、その必死さにまた笑い合って。

 失われた夏がどんなものかはわからないけれど、未来の自分がいつかの夏にまた空を見上げる時。

 その時は今この瞬間――トーカと過ごした確かな夏の記憶を、特別な感傷として思い出すような気がした。


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