蜂蜜漬けと現実逃避と受験生
―これは事実に基づくショート・フェイクエッセイである。―
五月の終わりの昼下がりだった。ぼくは昨日の模試の自己採点から目をそらし、ちょっとだけ罪悪感に浸っていた。(まるで優越感かの物言いだが)今回も模試はぼくの前に立ちはだかる壁という感じでその先のブイジョンが見えなかった。まだ気分が乗らないというととても怒られてしまいそうだが、ぼくは受験生だということからも真っ向から向き合えずにいた。
程よい湿気を含んだ空気に日曜日の無邪気な陽気が沈殿している。初夏だ。何を思ったかぼくは玄関を出てチャリにまたがり軋むペダルの音を響かせ、家から二十分のスーパーへ向かう。外の生ぬるい空気を断ち切るような冷房に少し眩暈を感じた。ぼくは果物売り場へ向かった。買うものはいつからか決めていた。レモンである。ここのところ梶井基次郎の「檸檬」を現代文の授業で読んでいたからだ。すぐにそれは見つかった。惹かれたレモンを手に取った。これがレモンイエロー、か。一個だけの透明なプラの袋に入っているレモンをレジに持って行った。
チャリを漕いでみても周りが仙台だという錯覚は起きなかったし、起こそうとも努めなかった。しかし、ぼくはどこかで「檸檬」の主人公と自分を重ねていた。今ぼくにある「えたいの知れない不吉な塊」があるとすればなんだろう。多分、不安や劣等感だろう。紛れもなく受験に対する。レモンを手にしたぼくは家に向かっていたが途中で本屋へ方向転換した。
大手チェーンの本屋へ着くと新刊がずらっと並んでいた。どれも興味深かった。なんとなく主人公の気持ちが、わかる。主人公のようにその本屋を嫌っていた訳ではないが。主人公は本を積み上げて、爆弾を仕掛けたが、ぼくは爆弾の入ったリュックを背負って今流行りの漫画を見て歩いた。特にそれがどうという訳ではないが、足早に本屋を後にし、帰路に就いた。
イアホンからは米津玄師の「Lemon」がリピートで垂れ流されている。歌詞に「苦い檸檬の匂い」と唄っているところがあるがどういうつもりなのだろう。そのまま食べたら酸っぱいはずだし、今僕が作っている蜂蜜漬けを食べたのなら甘ったるい檸檬の匂い、だ。でもすぐになんとなく察しはついた。
主人公とこのちっぽけなぼくの共通点はなんだろうか。答えは現実逃避しているところだった。ぼくは現代文の授業中に主人公は現実に背を向けているから妄想をしたのじゃないかとふと思った。もし仮にそうだとしたら勉強から逃げるぼくと、一緒だ。
二日後、たっぷり漬け込んだレモンをひと思いに頬張った。おお、なんとも上品な甘さではないか。ぼくはまた一つ口に運ぶ。依然として甘かったが、何故か心の中は苦々しかった。なんと表現すれば正解なのだろうか。拾ったお金を懐に入れたような、週末課題を初めてさぼった時のような、無断で学校を休んだような、苦々しさだった。ふとその苦さは今のぼくの駄目な部分の現れだと感ぜられた。
さらに次の日ぼくはとうとう受験勉強を始めた。みんなからどれほど遅れを取っただろう。現実に向き合わなきゃ妄想した理想には届かない。そんな単純なことに気づいた。ぼくは「檸檬」から何を学べただろう。何かを学ばずして変化は起きない。ただ一つ小さな気づきはぼくを机へと向かわせた。
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あとがき 僕が国語の宿題で書いた文章であるこれを公開するのは受験への決意表明である。乗り越えられるかはさておき昨年の初心を忘れずにいたい。なお本文は原文ママである。