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灰崎凛音・独占インタビュー(注:自己紹介)

——まず最初に、人生最初の創作について伺ってもよろしいでしょうか?

灰崎はいざき凛音りんね(以下「灰崎」)「七歳の頃、偉人の伝記を読むのが好きだったんです。リンカーンとかエジソンとかに並んでベートーヴェンがあって、あ、僕は三歳からクラシック・ピアノを始めたんですけど、音楽室でもひときわ目立つじゃないですか、彼(笑)。それでベートーヴェンの伝記の中に、『この天才児は弱冠五歳にして曲を書いたのである!』と書いてありまして、まあベートーヴェン・レベルだったらコンチェルトとか交響曲だったと思うんですけど、僕は何を思ったのか、『あのおっさんが五歳で書けたなら七歳の俺もいける!』とイキってしまい(苦笑)、そのままピアノの独奏曲を作りました。採譜はしていませんが、今でも弾ける簡単な曲ですよ」

——小説よりも音楽が先だったんですね。

灰崎「はい。ピアノ講師に披露したら『どんどん書け!』と叱咤激励を受けまして、一度は発表会で僕だけ課題曲と自作曲を弾かせていただいたこともあります。その後は親父がYAMAHAのシーケンス・ソフトを買ってくれたので、音質は最悪でしたが、DTMにのめり込みましたね」

——肝心の小説やネタはいつ頃からだったんでしょう?

灰崎「それが、自分では覚えてないんですよね。ただ、九歳か十歳だったことは記憶しています。母曰く、親父が会社から、当時まだ珍しかったワープロを持ち帰ってきた時に、僕はタイピングの練習として、すっと物語を書き始めた、とのことです」

——その原稿って今でもあるんですか?

灰崎「まさか(笑)。僕が持ってる一番古い原稿は、小説では中一の時に回し読みしてもらってたものです」

——どういったジャンル、内容だったんでしょう?

灰崎「普通に中二病小説ですよ(苦笑)。地元が有り得ないレベルで荒れていて、進学した遠方の中高はお坊ちゃんお嬢ちゃんしかいないぬるま湯学校だったので馴染めなくて。だから地元の悪童共がその学校をぶっ潰しに来るような、まあ、完全に妄想ですね」

——初めて公募の新人賞に送ったのはすぐだったんですか?

灰崎「とんでもない! 十六の時に書いた、僕の実質的な処女作みたいなものを、文藝賞に応募しました。応募したこと自体を忘れていて、翌年の発表は図書館の『文藝』を見て知りましたが、まあ、DKがイキってしまう程度には良い結果でしたね(笑)」

——その後、音楽活動を続けながら渡米されたんですよね? きっかけはなんだったんでしょう?

灰崎「物心つく前から、僕はTHE BEATLESやQUEENといった洋楽を聞いていました。別に両親が熱心な音楽ファンだった訳ではないんですけど。それで中学の時にNIRVANAと出会って、初めて『なんじゃこりゃ!』っていう衝撃を受けたんです。そこからどんどん洋楽ロックに沼っていって、まあ好きな系統としてはUK寄りだったんですけど(笑)、どうしても『アメリカ』というより『ニューヨーク』への憧れが日に日に増していって。高校も不登校になって、たまたま出席した午後の授業の最中に、『日本では生きていけないな』と悟ったというか。まあ今日本に居ますけど(苦笑)。それで即座に英語学校と通信制高校を自力で探して、親に土下座して単身ニューヨークに乗り込みました」

——どうでしたか? 憧れのニューヨークは。

灰崎「空港で車に乗って、マンハッタンに入った瞬間、 

 俺はここで生きてここで死ぬ為に生まれてきたんだ!

 と強烈に感じたんです。日本に戻るなんて発想は霧散して、如何にしてグリーンカード(※永住権)を手に入れるか、マンハッタンのダウンタウンを通過しただけでもう考え始めて(笑)」

——そんなにですか! 実際の生活は如何でしたか?

灰崎「マンハッタンには家賃的に住めなかったので、クイーンズという地区にアパートを借りました。他の留学生は日本で決めていたり、日本人コミュニティを利用していましたが、僕はとにかくニューヨークに染まりたかったので、自力でしたね。結果、当時築九十二年の良い部屋を借りられました。洗濯機や冷房はありませんでしたが、自分で取り付けたり、毎週末ランドリーに行くのがリアルで良かったです。英語学校を数校転々とした後、ニューヨーク市立大学の一校に入学する予定が、手違いで僻地の大学に決まりまして(苦笑)、それでも当時一番仲の良かった友達とは、Facebookで再会して今でもやりとりがありますよ」

——素敵ですね。ニューヨークでお気に入りの場所は?

灰崎「当時で言えば、間違いなくアスター・プレイス、特にセント・マークス・ストリートです。今はシティ(※マンハッタン)の景観をよくするためにと僕が出入りしていた店は全て潰されて、クリーンでお洒落な道になったと聞きましたが、あの頃はあの辺が一番パンクだったかな。どんなファッションでも受け入れられるし、うるさい親も居ないので(苦笑)、髪型や色をとんでもないことにして遊んでました。実は、セント・マークス・ストリートで買ったリストバンドとパンツは、今でも愛用してるんです」

——物持ちが良いとの噂は本当なんですね! では帰国後はどのような生活を?

灰崎「しばらくは『来日中だ』と言い張っていました、ニューヨークに帰る気満々だったので。しかしそれも様々な要因で不可能となり、英語力だけはキープを努めましたが、読み書きは絶望的ですね。バイトを始めては辞め、という生活を数年続け、相棒と出会って、上京してからWEBライターのお仕事をいただいたり、サイトに投稿したオリジナル小説にお金を落としてくださる方が、ほんの少しですが出てきてくださって」

——『自分の文章がお金になる』というのは、灰崎さんにとってどんな感触だったんでしょう?

灰崎「僕は社会人経験も、日本の大学に行ったこともない、社会的に無知で非常識な人間ですから、在宅で、しかも向こうからオファーをいただいて文章を、原稿を書かせていただいて、さらにそれが収入に繋がるというのはにわかには信じられない事実でした。今も、リモートでのライティング業務を探しています」

——小説は違いましたか? 『商品化された』と感じる方もいらっしゃいますが。

灰崎「いえいえ! 涙目、いや、落涙するほど嬉しかったですよ(笑)。WEBライターとして色んな記事を書いて原稿料をいただく度に、『本業は小説なんだけどなぁ』と思っていたので」

——では何故、『灰崎凛音』としては中長篇をWEB上に公開しないと断言されているんですか?

灰崎「断言まではしていないつもりです。僕のことですから、いつ気が変わるか分かりませんしね。ただ、『小説』投稿サイトはおそらく合わないんだと思います。公募の新人賞に送ってもいいですし、今お声掛けいただいているように、書店の棚に置かせてもらってその売上げをいただいて、という形でも——、あ、すみません、撤回、やっぱプロになりたいです(笑)」

——はは(笑)。灰崎さんのおっしゃる『プロフェッショナル』の定義を伺っても良いですか?

灰崎「真っ当な商業出版で、単著で、僕の作品に適度な愛情と距離感を持ってくださる編集者さんらと、継続的に小説を発表し、少しでも多くの人々に読んでいただくよう日々腐心することですかね。これまで幾度かデビューのお誘いはありましたが、それらは今申し上げた条件に合致しませんでしたので」

——なるほど。では最後に読者にひとことお願いいたします。

灰崎「このインタビューは架空のものですが、内容は全て真実です。
   と、書いてあっても、情報は疑ってかかってください。
 俺ボクわたしは灰崎凛音という名のいち書き手であって、書くことに対してだけは真摯に生きてきました。しかし他のことに関しては自信がございません。
 頼むから俺の一人称やプロフィール画像や言葉遣いや推定され得る年齢から俺の書くものをジャッジしないでください, for god's sake.

嘘の多い生涯を送って来ました。

灰崎凛音

 俺は酷い目に遭ってきたけど酷いこともしてきた。
    だからこんな奴の言うことは真に受けず、

ただ書くものだけを受け止めてください。


 俺が言いたいのはそれだけです。本当にそれだけです
   
   ここまでお読みいただき、誠にありがとうございました」

【終】


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