『シュバルツ・アプフェル~黒果~』第三話
「っ!」
黒のスキニーパンツに白いシャツを着て、その上から黒のテーラードジャケットを羽織っている姿はまさに昨日会った魔女。
シャクリとリンゴを食べるしぐさまで同じ。
……ただ、時計塔のときのような恐怖すら覚える妖しい美しさはない。
昨日見た長い銀色の髪じゃなかったからかもしれない。
今の彼は前髪が少し長めな短髪で、その色も黒い。
前髪の左側の一部分だけが名残りのように銀色をしていた。
でも、それでも彼の美しさは変わりなくて私の鼓動は早まるばかり。
その切れ長な目が私を捉えた瞬間、僅かに見開き細められる。
「雪華? どうしてここに……」
そう呟いた後、彼の艶やかな唇の口角が上がる。
「そうか、俺のものになる気になったか?」
あまりにも妖艶なその笑みに、私はまた思考を奪われた。
近づいてくる彼を魅了されたかのように見続ける。
ドキドキ、ドクドクと自分の心臓と脈の音が大きく響いて聞こえる気がした。
「いいぜ、来いよ。……お前をずっと待ってたんだ」
そう言って魔女は私の手を取り引いていく。
妖艶に微笑むその瞳に誘われるがまま、私はついて行ってしまう。
頭のどこかでこのままついて行ってはだめだと警鐘が鳴っているのに、足は操られたかのように進んでいく。
「え? おい、眞白から話聞いてねぇの!?」
颯介さんが何か言って止めてくれている。
でも魔女は答えるより先に持っていた食べかけのリンゴを彼に放り投げた。
颯介さんは慌ててそれを受け取る。
「話? 何だよ?」
「え? いや、俺も詳しくは知らねぇけど……」
「じゃあ邪魔すんな。俺がどれだけ待ったと思ってるんだ」
「いや、でもよ……」
颯介さんは止めようとしてくれているけれど、チラッと私を見て口を閉じてしまった。
多分、私が抵抗らしい抵抗を見せていないからだと思う。
分かってる。
今ここで颯介さんに彼を止めてとお願いすればもっと強く魔女を止めてくれる。
でも、私はどうしたいんだろう?
このまま魔女に食べられてもいいと思っているのか、助けて欲しいのか。
やっぱり思考を奪う魔法をかけられてるんじゃないかな?
自問しても答えが出せない。
ただ分かるのは、どうしようもなく惹かれていることだけ。
でもそれも私の本心なのかが分からない。
結局颯介さんは強く止めることが出来ず、私は魔女の誘いに乗ってしまった。
***
階段を上がってついたのは三階の一室。
彼が電気を点けると、そこは十畳程の洋室だった。
黒を基調とした、シンプルな部屋。
ジャケットを脱いで椅子の背もたれにそれを掛けた彼は、ドアの辺りで立ちっぱなしになっていた私にその手を伸ばした。
「……来いよ」
「っ!」
行っちゃダメだ。
そう思うのに足は動き、彼の手を取る。
まるで本当に操られているみたいで、ゾクリと怖くなった。
でもその恐怖すら彼の魅力となって私を惹きつける。
繋がれた手を引かれ、昨日の様に腰に腕を回される。
もう片方の手が、私の頬を包む様に触れて……。
「雪華……」
艶めいた唇が、甘く私の名を呼ぶ。
求められていることが分かって、喜びに似た感情が湧き上がった気がした。
でも、間近に見たその赤みのある茶色い目が数時間前のものと重なって――。
『沙奈……慰めてくれ……』
その瞬間、魔法が解けた。
「っ⁉︎ ぃやっ!」
バシッ
思わず、その綺麗な顔を両手で隠すように抑える。
「……おい」
丁度口だけが見える状態の彼が不満そうに声を上げた。
まあ、言いたいことはわかる。
何ていうか……いい雰囲気だったのを止められた状態。不満にも思うだろう。
でも、正気になった私はこのまま……なんていうのは無理だ。
義父さんのことを思い出してしまったから尚更。
「っご、ごめんなさい。……でも、その」
どう説明しようかと口ごもっていると、ピロロンとスマホの着信らしき音が繰り返し鳴った。
「……はぁ」
ため息をついた彼は、私から離れてジャケットのポケットに入れてあったらしいスマホを取り出す。
「……眞白?」
呟いて、電話に出る。
眞白からの電話?
もしかして、説明の電話今かけてきたの?
ちょっと遅いんじゃないだろうか。
なんて不満に思いつつ彼の様子を見守った。
「なんだよ?……はぁ!? ああ……それで?」
眞白の話に相槌を打っていたかと思ったら、突然「はぁ!? ふざけんなよ!?」と大きな声を上げたのでちょっとビックリする。
「お前ももっと早く言えよ!……いや、大丈夫だ。ああ、分かったよ」
そうして電話を切った彼は、ベッドの方へ向かってスマホを放り投げると「はあぁ……」と大きなため息をつき腰掛けた。
えっと、私はどうすればいいのかな?
部屋、出てってもいい?
戸惑い迷っていると、「雪華」と名前を呼ばれる。
「とりあえず抱いたりしねぇから、お前もここ座れ」
その指示に数秒躊躇う。
抱かないとは言ったけど何もしないとは言っていないし……それにそこベッドだし。
「来いよ」
でも短く誘う言葉につい言う通りにしてしまった。
また魅了の魔法にでもかかっているんだろうか?
でも隣に座った私に、彼はすぐに何かをしてくる様子はない。
むしろ虚空を睨んで「あんのクソ親父……」と呟いていたので、とりあえず眞白はちゃんと説明してくれたんだな、と思った。
「はぁ……」
怒りを吐き出すような溜息をついた後で、彼はその形のいい眉を寄せて私を見た。
「……親父が悪かったな」
「え!?」
一瞬どうして謝られるのか分からなかったけど、彼にとって義父さんは実の父親だからだとすぐに納得する。
でも。
「あなたが謝ることじゃあ……」
ない、よね?
「それと、知らなかったとはいえそんな状況の時に抱こうとして悪かったな」
「それは……」
知らなかったなら、仕方ないよね?
私も抵抗してなかったし。
今思えば、どうしてあれほどまでこの人の思うがままに行動していたのか……。
やっぱり魔法でもかけられてしまったのかな?
なんて、あり得ないことを本気で考えそうになる。
でも、今も彼にどこか惹かれている自覚はあった。
その美しさに魅了されたのか。
その妖艶さにあてられたのか。
それとも別の理由なのか。
それは分からなかったけれど……。
その辺りを少し考えていると、彼の表情があからさまな不満顔に変わる。
子供っぽさが少し垣間見えてちょっと驚いた。
こんな表情もするんだ……。
美しく妖艶な色気ダダ洩れな雰囲気だったのに、今の表情を見ると少し可愛くも見えてしまう。
魔女っぽさより人間っぽさが出て少し安心した。
「……でも、やっとお前を俺のものにできると思ったのに……またお預けか」
「お預けって……」
確かにずっと待っていたって言ってたくらいだからそう言いたくもなるのかな?
けれど、どうして彼はそこまで私を求めてくれるのか。
「でも、どうして私なの? 七年前に一度会っただけなのに……」
確かにあの時欲しくなったとは言われたけれど、それから七年も経ってる。
考えが変わるには十分な時間だ。
そう思ったのに……。
「忘れたのか? 俺はお前が欲しくなったって言ったはずだぞ?」
まるでその七年なんてなかったかのように同じ言葉を口にする。
「で、でも、あれから七年も経ってるのに……私じゃなくても――」
「雪華」
あの一度の邂逅でどうしてそこまで思ってくれるのか。
それが分からなくて言葉を重ねようとする私を彼は名前を呼ぶことで止めた。
「自覚しろ。お前は、俺の特別なんだ」
「っ!」
その瞳に欲とはまた別の灯が宿り、私を見つめる。
手が伸びてきて頬を撫でるように包み込んだ。
「俺が欲しいと思ったのは、後にも先にもお前だけだ」
「っ!」
甘さすら込められた言葉に、私はなんて返せばいいんだろう。
惹かれているのは確か。
でも、同じ思いを返せるのかは分からない。
自分の気持ちがハッキリしないのに、この真っ直ぐな思いに応えることなんて出来なかった。
でも彼はそれすらも見透かしているようで……。
「まあいいさ、何にせよお前は俺のところに来た。それならこれからじっくり教え込んでやればいいだけだ」
「え?」
どういう意味か分からなくて聞き返そうとするけれど、その前に頬を包んでいた手が肩に移動して押された。
「あ、きゃっ」
小さく悲鳴を上げると、ボスンとベッドに埋もれる。
驚いているうちに、彼の大きな手が私の視界をふさいだ。
「これから毎日教え込んでやるよ。俺がどれだけお前を思い求めているかをな」
声だけなのに、彼が艶美に微笑んでいるのが分かる。
それでいて、甘く優し気な響きもあった。
「心配しなくても、お前が良いと言うまで抱かねぇよ。……でも、その代わり唇は拒むな」
顔が近づいてきてるのがその声の近さで分かる。
息がかかるほど近づいて、囁かれた。
「目は閉じてろ。……怖いものは、見なくていい」
「っあ……」
それは優しさなんだろうか。
義父さんと同じその目は見なくてもいい、と。
「んっ」
唇が塞がれる。
時計塔のときと同じ、私のすべてを奪うようなキス。
息がしづらくて、苦しくて。
「待っ、くるしっんっ」
何とか合間に苦しいと訴えたけれど、聞こえていないのかまた塞がれる。
苦しい毒のようなキスは、やっぱりリンゴの味がした。
朦朧としてくる意識の中で、初めてのキスはどんな味だったっけ、と考える。
私のファーストキスも、この人だったから。
七年前、リンゴを差し出した私に美味しそうだなと言ってキスをした人。
突然のキスに驚いて、私はあのときの記憶がちらほら吹っ飛んでしまった。
何か、大事なものもあった気がするのに……。
彼のことを知れば思い出せるのかな?
そう思いながら、私は意識を手放した。