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短編小説:想い香るカフェ(後編)
コーヒの欄にはドミニカやコスタリカ、エチオピアなどがあり、また煎り方も深煎りなど選べるようになっていた。どうしようかな、と考えつつ僕は今あまりお腹が空いていないことを思い出す。
「よし、」
注文を頭の中で決め、咳払いをする。
「すみません」
「ご注文お決まりですか?」
僕が小さな声を出すと店主は笑顔で尋ねてきた。
「ドミニカのハイローストください。」
「ドミニカですね、アイスとホットどちらにしますか?」
「ホットでお願いします」
「かしこまりました、少々お待ちください」
そう言って店主はカウンターの先で作業を始めた。
注文を終えて一息つく。ただでさえ暑い日なのにホットを頼んでしまった事を後悔した。でも、外にいた時に香ってきたあの匂いはおそらくホットコーヒーの香りだった。あの香りにつられてこの店に来たのだから、ホットコーヒーを飲まないといけない気がした。
注文から5分ほど待っていると
「お待たせいたしました」
店主の声と共に注文したものが届いた。
「ごゆっくりどうぞ。」
と店主は笑顔でまたカウンターの先に戻っていった。
視線の先には注文したコーヒーが置いてある。
コーヒーの匂いを嗅いでみると、外で香った香りと全く同じ匂いがした。
香ばしく、懐かしい香り。ここ数年飲んでいなかったコーヒーの香りは自然と僕の心を落ち着かせた。香りと懐かしさを感じ、コーヒーカップを手に取ろうとして気がついた。
僕の手は震えていた。理由はわかっていた。
夢を追っていた頃の事を思い出した。意を決してカップを手に取った。
今となっては、どんな味だったかも曖昧な気がする。僕は唾を一滴飲んでから、カップのコーヒーを口の中に注ぐ。コクのある苦味と香ばしさ、ほんのり甘みとコーヒー豆特有の上品な香りが口いっぱいに広がった。数年前まで毎日飲んでいたコーヒーの味。忘れるはずがない。僕が大好きな味だった。
「お口に合いましたか?」
店主がカウンター越しに聞いてきた。
「はい、とっても美味しいです」
ありきたりだが、今はそれ以外の言葉が見つからなかった。
そう言うと店主は少し目を細める。
「ありがとうございます」
店主は優しい声音でそう言った。
また一口飲むと、やっぱり美味しかった。目では見えないところで温まっていく感覚があった。すると、僕の前に急に店主がハンカチを差し出してきた。意図が理解できず、店主の方を見る。
「とてもお疲れのようですね」
何を言っているのだろうか。そう思いふと手元を見ると水滴が落ちていた。
僕は両目から温かい涙が溢れ出していた。僕は店主からハンカチを受け取り涙を拭いた。
何度拭いても視界は滲んだままだった。一度溢れ出したら止まらず、それとともに嗚咽が漏れた。
「お客様が無理をなさっていることは、誰が見てもわかることでしょう」
店主の顔はよく見えないが、その声は優しくて、やわらかく、どこか子供を慰めているような声だった。
「実は辛かったんです。この毎日が悔しかったんです……夢を叶えられなかったことが。」
吐き出したら止まらなかった。ずっと溜め込んでいた想いの溢れ出した奔流は、もう僕にはどうしようもないことだった。
相手が初対面の、しかもお店の店主だということも忘れ、今は自分の溢れ出した感情に身を任せ、溜めていたものを全て吐き出した。
「いつか、小説家になって、誰かを救うことができる物語を書きたかった……そんなの単なる僕のエゴでしかないけど…中学生の頃に読んだあの本が、僕を救ってくれた。そこにいた自分を、あの本は確かに肯定してくれた…母さんの子供じゃない僕を…あの本は唯一僕を…」
ずっと考え、悩み続けていたことが津波のように溢れて止まらない。
「僕は所詮、ただ自分のやりたいことを、自分の我儘ををエゴで通そうとするガキでしかなかった。僕はただの文才もないただの小説好きってだけだった……」
人目も気にせずに僕は子供みたいに泣きじゃくった。
「何度やってもダメだった。僕の書く小説は読む人に評価させなかった。僕が書くものは、評価されなきゃどうしようもないのに、それでも結局わかったのは、僕には小説を書く才能がないってことだった。」
目が赤く腫れ、瞼が痛む。どのくらい喚いていたのだろうか。
「すみません。子供みたいに泣き喚いてしまって………」
店主にそう謝る。
他にいたお客さんにも謝ろうと後ろを振り向いたが気が付けば誰も居なくなっていた。店主のことを見上げると先ほどよりも優しく、やわらかい微笑みを浮かべていた。
「実はカフェの店名の“プルメリア”というのは花の名前で祖父が好きな花だったんです。」
店主は先ほどと同じ優しい声で話し始めた。
「プルメリアの花言葉は“気品”、“恵まれた人”というものです。実はこのカフェ、元々は僕の祖父が経営していたお店なんです」
「そうなんですか?」
「はい。5年前に祖父が他界してからは僕が継いでいるんです。僕も悩みがあった時によくここで祖父に話を聞いてもらっていたんです。このカフェに来てくださるお客様への、いわば応援メッセージの意味を込めて祖父が命名したそうです。」
「応援メッセージ?」
「はい。祖父はお店に来てくれたお客様の一つの助けになれば良いと思い考えたそうですよ。つまりこれは祖父の“エゴ”ですかね。」
店主はそう言って僕に微笑む。
「この世はこのようなエゴで満ちています。人々が想いを持って生きていく以上、それは変わることはないと思います。」
店主は優しく、教え導くような声で話す。
「重要なのは貴方がこの先、どう生きていきたいかです。自分がどういう出自かなどは、あまり重要ではないのです。大切なのは貴方がこの先、どうしたいかです。」
店主の言葉に少し熱がこもっていく。
「本来、それを行う手段も、あまり重要ではありません。何かに縛られる必要なんて、全く無いんです。
店主は僕を見る。
「“自分の中で燻っているそれを発露するのに、その手段しかないのであれば諦めずに何度挫折しても縋りなさい” 祖父が僕に言ってくれた言葉です。僕はこの言葉に救われたんです。」
「でも、僕は……」
「大切なのはどんな時も、明日です。過ぎ去った過去ではなく、可能性に満ち溢れている明日という未来です。過去の自分がどうだったなんて、重要じゃないんです。」
僕は店主の目を見つめる。その慧眼には今も、“明日”という未来を見据えていたのだろう。
「僕なんかに、できますか?」
「大丈夫です。そのためにこのお店があります」
そう言うと店主は人懐っこい笑顔を僕に向けた。
「また、何かあればいつでもこのお店に来てくださいね。」
店を出ると日が沈みかけていた。
時計を見ると時刻は午後5時過ぎ。どうやら4時間も店で泣いていたようだ。
だが、4時間前より不思議と体は絹のように軽かった。
不平も不安も悔恨も、この店で出し切ったからだろうか。
いや、それだけではない。今となっては僕には別に重要なことや特別なことでもない。空を見上げると不思議と空は澄んでいた。
またこの店に来よう。今度は夢が叶った時に。
スマホで上司に電話をする。言いたいことを言って切る。怒鳴っていた気がするが、別に関係ない。
今日は早く帰って、早く寝て、明日は早く起きよう。今は明日が楽しみで仕方なかった。
そう思って僕は、背を伸ばして歩き出した。