見出し画像

短編小説:雨のそらごと



その日は雨だった。



寒い冬の日ではあったけれど、いつもとさほど変わらない、ありふれた日常。当たり前みたいにやってきた今日と、その中を生きる自分と、同じような明日を予感させる街の景色。
少し濡れたスカートの裾を気にしながら、急ぐ帰り道。

……約束は破られた。

今日が来るのを指折り数えて待っていたのは私だけだったようだ。
これで何度目だろう。
今日は二人にとって大切な日だったはずなのに
『ごめん、急用が入った』
簡単な言葉で全てを否定され、冷たい雨と相まって、私の心は冷え切っていた。きっと、もう終わるのだ。彼の心は、もう私に向いてくれる事はない。
赤信号で立ち止まった私はふとスマホを取り出した。
最近SNSでよくやり取りをしている、心音(しおん)さんが今日も「何気ない日常」を呟いていた。
私が心音さんを知ったのは、彼が書いたweb小説の投稿を見たのがきっかけだった。

「生と死だけが、我々に残された唯一の『平等』である」

その書き出しを読んだ私は彼の文章の虜になってしまった。
感想などを伝えるうちにお互いをなんとなく知り、彼が私と同じ大学生であること、小説を書くことが趣味であること、彼が最近恋人と別れたことなどを知った。やり取りを重ねていくうちに彼からの淡い好意にも気付いた。
だけど、心音さんは私に恋人がいることを勿論、知っている。だから私たちは小さな箱の中の知人でしかない。
私はずるいかもしれない。
心音さんの好意を知りながら、彼を試すように書き込みをしたのだから。
「約束なんかしなきゃ良かった。希望なんか、どこにもなくなった。私は、独りだ。」
信号が青に変わる。私は雨の中ゆっくりと歩き出す。
すると心音さんからメッセージが返ってきた。

「今、どこ?」
「大丈夫?」
「僕でよければ話聞くよ?」
思った通りだ。私は言いようのない罪悪感と共に、安堵の息を漏らす。
「大丈夫じゃないです」
送信ボタンを押す指は、一瞬だけ躊躇したけれど結局は押してしまう。
「場所、教えて。迎えに行くから」
いけないことだとわかっている。
こんなことすべきではないと。
それでも私は独りが嫌だった。

心音さんに会うのは初めてである。
だから、お互い顔も知らない。会った途端、幻滅するかもしれないし、幻滅されるかもしれない。それはそれでも構わなかった。
「奈緒ちゃん?」
紺色の傘を差した長身の男性。少し不安そうに、私の顔を覗き込んだ。私は笑顔で応えた。
「初めまして心音さん」
「とりあえず、中入ろっか」
心音さんとの待ち合わせは、街中のカフェだった。
「大丈夫?寒かったよね」
心音さんはSNSでやり取りしている時と変わらず穏やかで優しかった。何より、ここまできてくれた事に私は少し浮かれてしまった。

「呼び出すことしてごめんなさい。今日、バイトでしたよね?大丈夫ですか?」
「今日は早く上がれたから全然大丈夫だよ」
そう言って席に座った。
「それで、どうしたの?」
心音さんは少し寂しそうな顔をして私を見つめる。
「もしかして、彼氏と何かあった?」
「………」
私は黙ったまま俯いた。
言い淀む私にそれ以上のことは聞かず、心音さんは紅茶とケーキを頼んでくれた。私がどんな紅茶が好きで、どんなお菓子が好きかを彼は知っている。
紅茶を飲みながら心音さんは他愛ない話を投げかけた。私も他愛ない返事をした。心音さんの話は面白くてとても同じ大学生には思えなかった。
「そういえば、心音さんって大学何年生ですか?」
「3年生だよ。奈緒ちゃんは?」
「2年生です」
「僕の一つ下だったんだね」
SNSでお互い大学生と言っていただけで学年までは伝えてはいなかった。

「私、今の彼と終わりそうなんですよね」
言わなようにしていたことをつい口に出してしまった。
心音さんは一瞬、驚いた顔をし、口を歪ませる。
「具体的に理由聞いてもいいかな?」
私は今日の出来事を心音さんに全て話した。
「奈緒ちゃんを泣かすなんて、信じられない」
「仕方ないですよ。『男と女なんて所詮は交わることなんか出来ない異星人同士』なんですから」
かつて読んだ彼の小説の一文を持ち出す。
「今、僕の小説の一文、持ち出したでしょ」
心音さんは紅茶を飲みながら微笑んだ。
「でも、本当に異星人なんですよ、きっと」
いっそ、そうであってほしかった。私と言葉が通じないのは違う星の住人だから。私と一緒に居られないのは星に帰らないといけないから。
「心音さんはどうして彼女さんと別れたんですか?」
恋人と別れたと聞いただけで理由までは知らなかった。
「………」
心音さんは少し複雑な表情になった。

「言いたくなかったら無理に言わなくも大丈夫ですよ。」
「………浮気」
少し沈黙の時間が続き、心音さんは消え入りそうな声でそう言った。
「え、」
「僕、大学の同級生の子と付き合っていたんだけど、付き合ってすぐに浮気されちゃってね」
「そうだったんですね。なんかごめんなさい。思い出したくなかったですねよね。」
不意に黙り込んだ私の手を心音さんがそっと撫でた。

「僕たちも、交われないのかな……?」
私の目をじっと見つめてくる心音さんの目は真剣で、とても必死に見えた。
「どうなんでしょうね、」
私は曖昧に返事をした。
「でも、私は男女間の愛はないと思ってます。」
年齢的にも未来を描きながら彼と過ごしてきたつもりで居た。でも実際はそんな話は一切出なかった。そしていつからか彼の私への態度は変わってしまった。
「やっぱり、ないのかな。」
心音さんは寂しそうに繰り返す。
「これはあくまで私の考えですけど、」
「奈緒ちゃん、」
「恋愛って、最初は泉みたいなんです。でも湧き上がる透明なキラキラした水は時が経つにつれて濁っていく。いつの間にか足元には泥が溜まって、抜け出したくても抜け出せない。もがけばもがく程、沈んでいって、最後には溺れて死ぬんだわ」
感情的になる私を見て心音さんは紅茶を飲みながらまた微笑んだ。

「心音さんの小説………」
「僕の小説がどうかした?」
「生と死だけが、我々に残された唯一の平等だって書いてましたよね?」
「うん、書いたけど」
「あれ、その通りだと思うんです。愛情って、人によって濃さが違うというか、重さというか、思いの丈って違いますよね。なのに恋愛するとお互いのバランスなんか考えずに二人は両思いだと勘違いするんです。でも本当はどちらかが重いから片方は浮くんです。まるでシーソーみたいに。平等なんかどこにもない」
そうだ、きっと彼は浮いてるんだ。

私が泥に沈んで溺れかけている時に、彼は水面から見える遠くの景色を見ていたんだ。
「できる事なら、僕がその沼の中から引っ張り出してあげたい」
心音さんが悲しそうに言った。
やっぱり、彼は優しい人だった。
この世界にあるのは刹那の欲とその場限りの安らぎと嘘ぽっちの約束ばかり。
「引っ張り出してその後はどうするんですか?」
「そうだね、もう水辺には近寄らせないようにする。」
「何ですかそれ」
私はクスッと微笑んだ。
「僕なら奈緒ちゃんを泣かせたりしないよ」
そう言って心音さんは私に微笑みかけた。

嘘つき。
言葉は水面を揺らすけれど、響きはしない。
私が沼から這い上がっても心音さんの新しい泉となる。だが、時が経てば同じように、どちらかが沈んでいく。
そもそも、有限の中にあって、無限に求めること自体、間違っているのだろう。最初からそんなものなかったのだから、最後まで見つかる筈がない。
わかっていても、変わらない想いや不変の愛を私は探してしまう。
もちろん、そんなものはないと知りながら私は探し続ける。

遠くから雨の音が聞こえる。
あの雨も流れて、いつか深く濁った水溜りができる。
誰かを水底に沈めようと笑む、大きくて濁った水溜りに。

雨は止むことなく降り続けていた。



いいなと思ったら応援しよう!