恐怖前提の人生をやめる
生きていく中で何が正しいのかわからなくなり、そのうち正しさなんてものは最初から無いのだと思うようになった。
そしたら別に、極端に言えば大半のことが何でも良い、どうでも良いのかと。
この考え方は、私を楽にはしなかった。
むしろ基準がぼやけて気力が余計に削がれたりした。
ある人と出会って、それとなくそんな話になったときに、私の思考とは180度違う話をされた。
いつもなら「私は違う」で終わってしまうような話だったけれど、その時は、何となくスルーしてはいけないような気がした。
私は今の私を抜け出さなければならない、そのために、このタイミングを逃してはいけないと思った。
そして、新しいことをはじめた。
その反動なのか、夢の中で私は、行きたくないところへ行き、使いたくない言葉を使っていた。
そして、すぐ以前の私へと戻っていた。
暫く、夢と現実の区別がつかなかった。
目が覚めて、余計に決意を固めた。
もう以前の私には戻らない。
今までとは風向きが違うような気がした。
自分で人生をコントロールできたらそれが1番だとは思っている。
けれど、それが今は難しいと知ったから
不要な殻には籠もらず、出会えた人に感謝して、
違う道を見せてもらう。
それは自分とは違うと思っても、取り敢えずその道に足を付けてみる。
恐怖や不安をどれ程感じたところで、人生は良くならない。反省は必要だけど。
今までの生き方を後悔して恐怖に変換したところで、それはこの先に何の利益ももたらさない。
私はこの何の意味にもならないことを
自分にこれ以上道を踏み外させないために
長い間続けていた。
反省をし続けるために。
けれどそれは、気づいたらただの錘になっていた。
過去の不要な記憶を頑なに手放さないことに、
これ以上何の良いことがあるのだろう。
苦しんでいる間にも、時間は過ぎていく。
後悔しない人生がどんなものかはわからない。
けれど、何も考えなくて良いなら
楽しく生きていたい。
楽しく生きることを、不可能だと思いたくない。
私は私を手放して、不要な執着も否定も手放して
残りの人生を生きてみる。
頭で無理だと思っても、言葉には出さない。
決めたら変わる、と信じて。