他人の期待に応えるために他人を差別する
こんにちは、国武凜です。
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今回は「他人の期待に応えるために他人を差別する」というテーマで、昨日大学の講義で学んだことを頭の整理がてらお話ししていこうかなと思います、主に社会学のお話しです。よろしくお願いしまーす!
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ということで本題です。
昨日の社会学の講義では、「差別の原動力はなんなのか」についての内容でした。差別はもちろんいけないことだし、それを推奨するような内容ではないことは踏まえた上で、でも差別というものについてしっかり勉強することは今後の未来のためにも、この多様性という時代においても重要なことだと思うので、考える価値はありそう。。。
ということで差別の原動力は何かというと、答えは「合理性」らしいです。
前期近代社会以降、人間は個人の責任で、自分のなかの正しさとか正義とかいったものに基づいた理性を通した内省を通じて自分という存在を認識してきました。内省によって理想の自分のイメージを作り出し、それに基づいた行動をする現実の自分、この二つの自分を行き来する「マッチポンプ的循環」が自己形成の基本だと言われています。
重要なのはその内省が「合理的」であることで、前期近代以降合理的であることの重要性が増し、正しさを社会規範としてその期待に応えるよう社会は国民に求めてきました。
しかし、もちろん合理的な人もいればそうでない人もいる。自分では正しいと思っていても、周りから見たら全く合理的でない人に対して、合理的で一般化された他者からの期待に応えるよう懸命に勤めている合理的な人は何をしたのか、それが「差別」です。
つまり、「正しいことをしなさいっ!」と他人に強要することが差別の始まりなのです。’一般的に’正しいことをしない人に足しては火炙りの刑にしたり、馬で体を四裂きにしたり、海に流したりしていました。
社会的に正しくないことをする人に対して差別を行う、歴史的に見てその対象になったにが「黒人」だったり「女性」だったり「精神障害者」だったりします。そして、その差別が今全てなくなったわけではないのが事実です。
正しさを追求して、時に集団を乱すかも知れない人物を排除することは合理的だし僕ら人類が発展していく上で欠かせないことでした。人類を内側から崩壊させられるかも知れないのだから、正しさを原動力に誰かを排除することは進化という観点から妥当と言えるでしょう。しかし、差別はそうではありません。差別はそれ自体が妥当性を欠いた理不尽なものであることが多いです。正義をもとに行った差別が本当に正義なのか、合理的な内省が求められますね。
ただ、全ての差別が悪いという話でもなくて、時には弱者を守るための優しい差別みたいなものも存在します。それがVIPだったり。
なので、「差別」という言葉を嫌悪するのではなく、その中身や妥当性の検証を経て評価することが重要だなあと思いました!
ということで今回は「他人の期待に応えるために他人を差別する」というテーマでお話しさせていただきました。何かの参考になれば幸いです、ではまた。
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