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連載小説 2020年代という過去<5章 部下> #5-1 別れた恋人

目次

前話 4章 友情 #4-3 幸せな死に方

 2月の中頃から、麗華の仕事はリモートワークに切り替わっていた。週に一回、担当しているシステムの動作確認のために出社しているが、それも半日程度だ。
 在宅勤務の際は、基本的にリビングにある二人掛けのダイニングテーブルで仕事をするが、オンライン会議の時間は寝室に移動する。寝室とは扉を隔てているとはいえ、音は丸聞こえだ。生活音が聞こえることで変な疑惑を持たれたくないという麗華の要望により、麗華が寝室に入っている間は、大きな物音を立てないように、純も自分の仕事をする。麗華の勧めもあって、オンラインでできる翻訳の仕事を始めたのだ。麗華にキーボード付きのタブレットを借りて、インターネットで仕事を請け負う。最初は慣れないキーボードの扱いに手間取ったが、一週間もしないうちに使いこなせるようになっていた。
 この時代の状況にカルチャーショックを受けて不安定になっていた純の精神状態も、翻訳の仕事を始めたことや麗華が家にいることで気が紛れ、最近は安定している。鼻歌を歌いながら観葉植物に水をやっている純を見た時、もう大丈夫そうだと麗華は安堵した。

 純は、寝室で麗華がオンライン会議をしている声を聞きながら、翻訳作業をする時間が好きだった。会議の内容は知らない単語が多く、純にはさっぱり理解できないが、彼女がチーム内でどのような存在なのかは感じとることができた。麗華には十名近い部下がいる。会議中の麗華の発言は、プロジェクトの成功だけではなく、チームメンバの成長やモチベーション維持を意識した言葉が多かった。
「時間がかかっても間違ってもいいから、一週間だけ一人でやれるところまでやってみようか。一週間後の状況次第でヘルプをつけるから安心して」
「このバグを次回に活かすことができれば、みんなにとって迷惑じゃなくて有難い出来事になるんだよ」
「地味で単調な仕事だと思うかもしれないけど、実は誰にでもできることじゃなくてね。これが私たちの信頼に繋がってるんだよ」
 チームメンバを気遣う麗華の声はいつも穏やかだった。そんな麗華に部下が相談することも多く、彼らにとって精神的な支柱となっているようだった。
 単独で政治家たちに噛み付きに行く取材をしてきた純にとって、麗華の対応はどれも新鮮であり、翻訳作業の合間に、こっそりとタブレットに麗華の言葉をメモするのだった。

**********

 ある日、オンライン会議中の麗華の寝室から、チーム5〜6人で雑談している声が聞こえてきた。
「もー、早く出社したいな。リモートワークになってずっと家にいるから奥さんに鬱陶しがられちゃって。仲悪いわけじゃないけど、一緒の時間が長すぎるとお互いストレスになっちゃうんですよ」
「一人暮らしも辛いですよ。もう何日もワンルームの部屋から出ず、人間含めた生き物に会ってないですからね。自分自身が人間なのかどうかも怪しくなります。家族がいる方は、そういう感覚ないんでしょ?」
「お前、大丈夫か。なんか可哀想だな」
「今度会った時には、人格変わってるかもしれません」
 話し声と一緒に笑い声も聞こえている。
「江藤さんは? 新婚だから、奥さんは一緒にいられる時間が増えて喜んでるんじゃないですか?」
「え、僕? いや、いやいや。そんな甘い感じではないですよ。奥さんは普通に出社してますしね。でもまあ、こんな状況の中で、お互い心細さは軽減してるのかなぁ。食事も頑張って作ってくれていますし」
「なんだ、やっぱり惚気てますよね。京本課長、江藤さんにキツい仕事振ってやってください」
 麗華が笑いながら応える。
「オッケー、次の案件は覚悟しといてね」
「いや、待ってくださいよ、京本さん」
 談笑はこの後もしばらく続いた。麗華も楽しそうに会話をしていた。少し聞いているだけでも、雰囲気の良いチームだとわかる。
 純は、この談笑を聞きながら、新婚の社員のことが気になった。自分の時代で、結婚や子作りについて取材していたからだ。この時代の結婚感を知りたい。麗華たちの会話を聞きながら、ジャーナリスト魂に火がついた。

 その日の夜、夕食をとりながら、純は麗華に聞いた。
「ねえ、さっき会議の声が聞こえたんだけど、チームの中に新婚の人がいるの?」
 ほうれん草のサラダを挟んだ麗華の箸が止まり、そのまま数秒間、顔も体も動かない時間が流れた。予想外の沈黙に純は戸惑った。麗華は純と目を合わせないまま応える。
「いるけど、何か気になったの?」
「あ、あの、ジャーナリストの仕事で、いろんな人の結婚についても取材して、この時代の結婚について知りたいなあと。麗華の知っている範囲で、どんな出会いで、どんな恋愛をして、どんなふうに結婚をして、生活の何が変わっているのかを教えて欲しいの」
 麗華は一度遠くを見つめてから、ニコリと笑った。
「いいよ。でもちょっと純を驚かせる話になると思う」
「ありがとう、もちろん時代が違うから、文化の違いに驚きそうだよね。でもむしろその違いを知りたいの」
「そういう意味じゃないの」
 麗華はまたニコリと笑った。よく見ると口角は上げているが、目は真面目だった。
「彼の名前は江藤尊(たける)。32歳。うちのチームのエースで、今度の4月に課長代理に昇進しそうだね。仕事ができるし、社交的だし、みんなにも好かれてる」
「へぇ、人気者なんだね」
「奥さんは友達の紹介で知り合った5つくらい年下の女性みたい。結婚したのは去年の10月だね」
「うんうん」
「ほら、これが結婚式の写真」
 麗華は携帯電話を操作して純に手渡した。受け取った純は笑顔で携帯を覗き込む。
「へー、この時代の結婚式ってこんな感じなんだ。確かに新郎は、爽やかな好青年って感じだね。一緒に映ってる人たちは?」
「職場の人たちだよ。まさに今日の会議に出てた人たち」
「みんないい笑顔だね。麗華も」
「うん。で、この新郎は7月までは私の恋人だった」
「うん。……え?」
「ほら、驚いたでしょ?」
 麗華と純の間に長い沈黙が流れた。無表情のまま食事を続ける麗華を見て、純は聞き間違いではないかと耳を疑った。

次話 5章 部下 #5-2 子宮が若いうちに


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